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| 遠山信和
1、はじめに 国際連合によって決議された「障害者の権利宣言」によれば、「『障害者』という言葉は、先天的か否かにかかわらず、身体的または精神的能力の欠如のために、普通の個人または社会的生活に必要なことを、自分自身で完全、または部分的に行うことができない人のことを意味する」といわれています。 つまり、足が不自由なために歩くことができない人であるとか、重い知恵遅れのために本を読むことも難しい人であるとか、年をとって耳が聞こえにくくなった人などは「障害者」といわれるわけです。しかし、これはあくまでも健常者といわれる人々が、「障害者」という区別をつけたのであって、神によって生かされている個人の存在そのものからいうと、障害者と健常者という二種類の人間がいるわけではありません。 例えば、「いしずえ」というサリドマイド児の会で、会員への意識調査がなされた時、60%の子供たちは、自分が不自由だと思ったことも、障害者だと思ったこともないと答えています。 スウェーデンのゴスペルシンガーであるレーナ・マリアさんは、生まれながらに両腕がなく、左足も短いのですが、「わたしはむしろ、この体が大好きです。」と述べて、神様と一緒に人生を歩むことの喜びを歌い続けているのです。クリスチャンであったご両親は、幼い頃から公園やプールなど公共の場に連れ出し、学校も普通学校に通っていたそうです。 父親は、「まわりの人たちは、レーナを障害者として扱いましたが、私たちはそうは考えませんでした。」と述べています。彼女は教会の子供聖歌隊のリーダーをしていたともいわれていますが、ここで考えたいことは、私たちの社会ではどうだろうかということです。外見は体が不自由であっても、その人の人間としての存在まで障害者として扱い、かわいそうな人、あわれみの対象、というような見方をしてはいないでしょうか。 レーナさんは、神の福音を聞き、キリストとともに生きるようになりましたが、私たちの社会でも、同じように障害を持つ人々が受け入れられるような社会を形成しているでしょうか。また、イエス・キリストが、多くの貧しい人々、体の不自由な人々、重い知恵遅れの人々などと積極的に出会われたように、私たちの教会は、同じように積極的に出ていく出会いをつくり出しているでしょうか。 隣人の重荷を負い、苦しみをともにし、キリストの心を心として生きる、愛することの具体的な働きが私たちに求められています。それは私たちの福音の理解と深く結びついたものであります。
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| ともに苦しみ、ともに喜ぶ
新約聖書の福音書を見ると、イエス様は、目の見えない人、耳の聞こえない人、体の不自由な人、精神障害の人・ハンセン氏病の人など、さまざまな「障害者」をいやされたことが分かります。主イエスの方からこれらの人々に関わり、これらの人々がかかえている痛みや重荷、苦しみを共にしてくださいました。 イエス様は、決して多くの画家がよく描いているように、頭に後光がさした、美しい身なりで、安楽な生活を過ごされたのではありません。主は貧しい大工の子として馬小屋で生まれ、人々からさげすまれ、痛みや重荷を担いつつ、いばらの冠を付けられて十字架にすべてをささげて死なれたのです。 この私たちの罪をあがなって下さるキリストのお姿のうちに、私たちが愛するということの意味が身をもって示されています。そして、「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカの福音書10章37節)という主のみ声を聞くのです。 この愛するということの一つの姿として「ともに苦しむ」(ローマ人への手紙12章15節参照)ということがあげられるでしょう。 イエス様は、社会の中でしいたげられている人々の苦難をともになさいました。そして、教会もまた苦難の中にある人々の苦難をともにするように求めておられます。「宗教的な行いによってではなく、世俗世界で神の苦難に参与することがキリスト者を作り出す」とボンベッファーはその獄中書簡の中で述べています。 キリスト者をキリスト者たらしめるのは、イエス・キリストにおける神のメシア的苦難に参与すること、そこで神を知ることができるというのです。 今日、物は豊かにあふれるようになりましたが、人々は、「苦しむ者とともに苦しむ」ということを次第に喪失し、それが人の痛みも知らず、差別をも見えなくしてしまっているのではないかと思います。 「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。…彼がになったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであった…彼が刺し貫かれたのは、私たちのそむきのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの答のためであった。彼の受けたこらしめによって、私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちはいやされた。」
このような主イエス・キリストを、教会のかしらと信じる教会は、ハンディキャップを持つ人々とともに苦しむことのできる共同体を指向しているはずです。 しかもこの共同体は、「ともに苦しむ」ことでは終わらず、「ともに喜ぶ」(ローマ人への手紙12章15節)、キリストの喜びをともに分かち合うものです。差別していた者が変わり、すべてのものがキリストにあって一つとされ、キリストのいのちに生かされるのです。受難のイエス・キリストの復活は、神が私たちから遠い傍観者的存在ではなく、私たちの歩みをご覧になって喜び、悲しみ、痛み、招き、福音に生きるものとして召してくださる救いの主であることを教えています。 もしも、私たちが人々の痛みに無関心であり、自己中心であり、搾取や偏見や分け隔てなどによって自己の利益のみを求めるような生き方をしているならば、主はそれを悲しまれるにちがいありません。 ハンディキャップを持つ人々と「ともに喜ぶ」ためには、例えば、車イスの人が教会に来ることができるようにスロープを付けたり、トイレを完備したり、目の見えない人が来れるように点字の聖書を揃えたり、カセットテ一プの貸出をしたり、車で送迎をしたりなどすることももちろん大切なことでしょう。 さらに大事なことは、積極的にハンディキャップを持つ人々と関わることです。一時的な傲慢な関わりではなく主が関わったのと同じように関わることです。そうしてその苦しみをともにするときに、その方にとって教会にスロープがあるということがどんなに大事なものであるかということに目が開かれていくのです。 さらに、洗礼・聖餐という教会の最も重要な交わりのうちに「障害者」をお迎えする用意がどこまでできているかということも重要な教会の課題であると思います。「いと小さき者の信仰告白」という書物の中で、日本基督教団井草教会の熊澤義宣牧師は、存在そのものにおいて信仰告白があり得る。そして、ことばとしての信仰告白のとりなしを教会が共同体の中でするべきであるといっておられます。 この世界にはいろいろなハンディキャップを持った方々がありますが、そういう方々が、神の前には平等な、かけがえのない存在として、互いに主イエス・キリストの福音の喜びを分かちあえる教会として成長していきたいものです。どの人も、お客様的な、周辺的な存在ではなくて、重要な役割を担っていけるし、そのように神は私たちひとりひとりを生かしておられるに違いありません。
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| 3、教会の対応
もしあなたの教会に障害者の方が来られたら、あなたはどのように対応なさいますでしょうか。「困ったな」「面倒な人が来た」「話しかけにくい」こんな気持ちを持つ方もあるのではないでしょうか。実は、私自身これと似たような気持ちが心の片隅にあることを正直に申し上げなければなりません。どうしてかといえば、その一つの理由は、私たちは、社会の中で体の不自由な人を見かけることはめったにありません。 それは、国家の政策などによって「障害者」を隔離し、健常者と呼ばれている人々の目に触れないような社会構造になっているからではないでしょうか。「障害者」がいないのではなく、社会の片隅に追いやられ、家庭の奥に押し込められているから見えないのです。 今の日本は豊かになったと言われていますが、残念なことに、障害を持った人たちが、安心して社会に出ていけるほどに私たちの社会は豊かになってはいないのです。 教会は、本当の豊かさを具現し、それを社会に示していくところです。その豊かさとは、イエス・キリストのうちに見られる豊かさです。主イエスならば、どのような出会いを生みだし、ともに歩もうとなされるのか、この視点からハンディキャップを持つ人々への対応を考えていくべきでありましょう。 日本基督教団小郡教会の青木優牧師は、障害者に対する教会の対応として、次の三つの態度をあげておられます。 1)障害者を無視する教会 障害者をして教会生活をすることを困難に感じさせる教会である。無論、意識的に障害者を排除する教会はあるまい。しかし、教会を構成する人々の価値観や、無意識の態度がそのように感じさせるのである。教会がこの世とあまり変わらぬ価値観を持つ、すなわち富んでいる人、学歴のある人、健康で行動的な人などが重んぜられ、貧しく、行動力がなく、障害を持っている者などは軽んじられ、無視される。そのような教会では、障害者はこの世にあると同様、自分が障害者であることを教会の中ですら恥じねばならないことを知り、いつしか教会を去っていく。 2)障害者をお客様扱いする教会 障害者に同情し、暖かく迎えてはいるが、彼らが教会員として成長することを阻害して
3)障害者を「共に生きる存在」として 教会形成の不可欠の一員とする教会障害の故に負わされている重荷を、ありのままに理解し、しかもその障害を通して働かれる神のみわざを信じ、共に尊敬しつつ、教会形成をめざす教会のことである。 障害者の「ために」奉仕するのではなく、障害者と「共に」主に仕え、この世に奉仕す
以上の青木氏の指摘を見て教会のあり方をふり返る時、あなたの教会もどこか当てはまる所を感じられるのではないでしょうか。いずれにしても私たちの教会は、キリストのなさりかたと比べて、足らない所、悔い改めるべき点があり、さらに関心を持ち、考え、祈り、自分から関わっていくことを教えられるのではないでしょうか。
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| 4、おわりに
「障害者問題研究委員会」は、「障害者」の問題を研究する委員会だと考えている人が
この問題は「障害者」の問題というよりは、弱い立場に置かれた少数者に対する多数の者たちの差別問題としてあらわれてきます。この意味では、部落差別問題、在日異国人差別問題などとも本質的には同様の罪の根を持っています。 少数者であり、ハンディキャップを持っている人々は、自分たちの抱えている重荷や痛みを訴えても、その声は小さいのです。そうした人々との関わりの中で、私たちは自らの罪を知らされます。そして、ともに生きる本来の教会の歩みの中で、主がなさった愛がどのようなものであるのか、福音の恵みの広さ深さがどのようなものであるのかを知らされていくのではないでしょうか。
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