キリスト教入門11
第11章 生きた信仰をめざして

信仰のリアリティ

インドネシアで宣教師をしておられた入船 尊先生は、「インドネシアでの最も大きな発見は、実は宗教であった。・・・今日の日本では、宗教を持っているというと、何か人生の深刻な悩みがあったのではないか、というように考えられがちだが、インドネシアのような社会では、人間が人間であるための当然の条件のように考えられている。・・・日本で一番欠けているのは、神との関係のリアリティである。」といっておられます(「宣教師としてインドネシアに遣わされて」より)。

人間が人間らしく生きるためには宗教が必要だということでしょう。
このような宗教に対する受け取り方は、インドネシアだけではなく、アジア、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカ、オセアニアなど世界のほとんどの国々に共通するものということができます。

日本にも宗教はたくさんあるのですが、仏教はほとんど葬式仏教といわれるように、ビジネスのための仏教のようになってしまっており、神道も他の新興宗教も人間の現世利益と欲望に仕えるものになってしまっている感があります。

このように人間が神のようになろうとする宗教は、時代や風潮に流されやすく、ある民族に偏ってしまう傾向があります。確固たる人生の基盤や、人生の目的を見極めることが難しいのです。

信仰とは、自分の人生のよりどころをどこに持つかということであり、自分や人間を超えた神により頼んで生きることです。

真に頼りがいのあるお方、私たちの弱さを受け入れてくださる方、そしてイエス・キリストにおいて深い愛を表して下さる神こそが私たちの主であることを聖書は教えています。

実に不思議なことですが、聖書において言われている神の約束の言葉は、これまで一つ残らず実現してきています。私たちは弱さがあったり限界があったりしますが、神は決して私たちを裏切ることはありません。
 

 
生きた信仰のために

「生きた信仰」というからには「死んだ信仰」もありそうですが、あなたも是非、生きた信仰を追及してください。そうすれば、信仰は人生の力の源であるということが実感できるようになるでしょう。
生きた信仰をえるためにはどうしたらよいのか、いくつかのことをあげてみます。

1) 神の前にひれ伏すこと
2) 神を父として認めること
3) 神によって自分のセルフイメージを回復すること
4) 私の救い主としてイエス・キリストを受け入れること
5) 私の人生のモデルとしてイエス・キリストを仰ぎつづけること

以上のことが、これからのあなたの生涯において、大きな生きる力になると確信しています。これらを簡単に説明してみましょう。

1) 神の前にひれ伏すこと

人間が失敗をするときはどういうときかというと、自分が神のようになろうとしたときです。人と人とを比較して相対的な自分の物差しを持って生きていくときの人生の土台は頼りないものです。

しかし、変わることのない神、私たちを超えた方のうちに自分をゆだねて生きる人生には安心があります。
神の前にひれ伏すとは、神を神として受け入れ、自分のこころのうちに、イエス・キリストをわが主、わが神としてお迎えしていくことです。

具体的には、聖書を人生の基準とし、礼拝において絶えず自らを振り返り、みことばを聞きながら人生を生きるようになることです。

私たちは、聖書において表されている私たちの神が、どのような神であるのかを知れば知るほど、感謝と喜びがその心を包むようになるでしょう。

聖書が分かるために何よりも大切なことは,神の前にひれ伏すことです。これがなくては,たとえ聖書に関する何万冊の本を読んで,聖書を全部暗記したとしても,聖書が分かったことにはなりません。

聖書は,私たちにいのちを与えるために書かれたのですが,聖書によって私たちがいのちをえるためには,神を神として認め,神を信頼して自らをゆだね、神の前にひれ伏すことが必要なのです。
神の前にひれ伏す姿として,具体的には「祈る」ことがあげられます。「絶えず祈りなさい」(1テサロニケ5:13)といわれているように,絶えず神に心を向けて祈りましょう。

「人よ、何が善であり 主が何をお前に求めておられるかは お前に告げられている。 正義を行い、慈しみを愛し へりくだって神と共に歩むこと、これである。」(ミカ書6:8)

2) 神を父として認めること

今に限ったことではないかもしれませんが,精神的な病を持った人が増えています。こうした人たちの多くは人を信頼することができません。「自分は生まれてこないほうがよかった」「自分の将来は暗い」というように考えている人がたくさんおられます。

ところが,こうした人たちが「親換え」を経験して,自分の父は聖書が教えている神様だということが分かってくるにつれて,しだいに癒されていくのです。微笑みと希望が心のうちに生まれてくるようになります。
神を自分の父として受け入れるということは、自分はどういうものであるかというアイデンティティに関係してくることです。

実は,私たちが何によって生きる力を与えられるかというと、それはアイデンティティによるのだといってもよいでしょう。アイデンティティは,自己同一性と訳されていますが,わたしはあの人に所属している,わたしはあの人につながっている,あの人と一つだという気持ちを持つことをアイデンティティといいます。

自分は誰であるかということを理解するときに,自分は誰とつながっているかということによって,自分が誰であるかがわかるのです。

自分の心を一生懸命調べて,分析して,自分は誰だといってもなかなかわからないのですが,自分の家族のつながりや,友人とのつながり,教会にきているというようなつながりを理解することによって,初めて自分が誰であるかということがわかるようになるのです。

イエス様の力がどこからきているかというと,それは間違いなくアイデンティティです。わたしは父なる神とつながっている。わたしが話した言葉は,わたしが語ったことではなくて,わたしのうちにおられる父が語ったんだ。といっておられます。
 

3) 神によって自分のセルフイメージを回復すること

セルフイメージというのは,私は自分のことをどのように考えているのか,自分とはいったいどういうものであるのかという理解のことです。聖書は,私たちのセルフイメージについて,私たちは神のかたちに造られたのだというのです。
創世記1章26,27節には次のように言われています。

「神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」

セルフイメージを考えるときに,私はどこからきたのか、ということをきちんと理解していくことは非常に重要です。私たちは,例えばこのコンピューターがどのように作られ,どこからきたのかを知っています。しかし私たち自身がどこからきたのか、つまりどこに所属しているのか,多くの人は知らないままに、あるいはあいまいなままに過ごしているのです。

そういう私たちに神様は、イエス・キリストを通して,あなた方を想像したのはこのような神なのだと教えてくださっています。私は偶然に存在するのではない。神様の深い配慮によって、神様によっていのちを与えられ,育まれているのだということです。

セルフイメージはどのようにして出来上がってくるかというと,大きな要因としては、家庭で親が子供にいろんな言葉を語る中で作られていきます。

親が子供に語る言葉の中で90%は否定的な言葉であるといわれています。「おまえはのろまだ」,「おまえは出来が悪い」、「あれがいけない」、「これがいけない」、細かく注意をされるごとに,自分はダメだという思いが,無意識のうちに自分のセルフイメージとなっていくのです。

そして言葉だけではなくて,親や友人や,この世のいろんな人々の言動を通してそれは自分の身についていきます。

もちろん,失敗することもあれば,注意が必要なこともあるでしょう。このときに親が人間というものをどのように理解し,自分をどのように受け入れているかということによって、子供の意識はずいぶん変わってくるものです。

では、聖書はどう言っているでしょうか。イザヤ書43章をご覧下さい。
神様は私たちにどういうふうにして語りかけるか、神様がどのようにして私たち人間に語りかけるか、この43章が語られたとき、イスラエルの人々は、神様に背いて偶像礼拝を行い、いろいろなみだらな罪を犯していました。それで、神様は罰をお与えになり,イスラエルの主だった人たちは「バビロン捕囚」として捕らえられてしまった、そのバビロン捕囚中に語られたのがこの言葉です。

みじめな状態になって、心も件もぼろぼろになっているようなイスラエルの人たちに、神様はこの言葉を語るのであります。

「ヤコブよ、あなたを創造された主はイスラエルよ、あなたを造られた主は今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。
あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず炎はあなたに燃えつかない。

わたしは主、あなたの神イスラエルの聖なる神あなたの救い主。わたしはエジプトをあなたの身代金としクシュとセパをあなたの代償とする。わたしの目にあなたは価高く、貫くわたしはあなたを愛しあなたの身代わりとして人を与え国々をあなたの魂の代わりとする。

恐れるな、わたしはあなたと共にいる。わたしは東からあなたの子孫を連れ帰り西からあなたを集める。北に向かっては、行かせよ、と南に向かっては、引き止めるな、と言う。わたしの息子たちを遠くから娘たちを地の果てから連れ帰れ、と言う。彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し形づくり、完成した者。」

神様がどのように私たち人間のことをご覧になっておられるかお分かりになるでしょうか。神様はいつも私たちに語りかけて下さいます。「私はあなたをあがなった、そのためにイエス・キリストを遣わしたのだ。わたしの愛するみ子があなたのために血を流して死んだ、このような代金を払ってあなたをあがなった、あなたを買い取ったのだ。」

私たちの人生の内にも、苦しいことや大変なことを経験するときもあります。順境の時もあれば、逆境のときもあります。パピロン捕囚をしたイスラエルの人々のような経験をすることもあるかもしれません。

しかし、そういう私たちに、神様は言われるのです。「あなたはわたしの目には高価で尊い。私はあなたを愛している。」これが神様のみこころです。

I am a chi1d of god.私は神の子供です。
I am forgiven. 私は赦された。
I am a position of god. 私は神のものです。
I am created in the image of god. 私は神のかたちに造られました。

4) 私の救い主としてイエス・キリストを受け入れること

「生き生きとした生活」などというと私たちが先ず思い浮かべることは、どうしたらよいか(How),そして自分の努力で何かをやろうとする、ということではないでしょうか。

しかし、パウロの焦点は「だれが(Who)」でした。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」(ローマの信徒への手紙7:24)。

自分がほんとうにみじめな人間だと知って落ち込むまで、私たちは方法論を追求し続けます。自分の努力に頼ります。ああすべきだ、こうすべきだと自分の力に頼ります。自分には何かできると思い込んでいるのです。あるいはそういう思いで人と人とを比較したりさばいたりするのです。これこそ律法を行なう態度なのです。

現在人気のある新興宗教や、自己啓発セミナー、ある種のカウンセリングなども実はそのようなことを教えています。あなたにはできるというような積極的思考や可能性思考などを教えているのです。
パウロも、積極的思考と可能性思考にかけては彼の右に出る者はないほどの人でしたが、ついに私にはできない。私はみじめな人間だと告白したのです。

イエスさまも、「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです」(マルコ12:17)とおっしやいました。

私たちは本来、信仰の世界に生きるのであって、すべてのことにおいて神さまに信頼する生き方をすべきなのですが、そのことがひっくりかえってしまって、あなたにはできる、あなたがやらなければということを教えがちです。
しかし、パウロが告白したように、私たちにはできないのですから、私たちが何かをするのではなく、私たちがだれに頼るかということが大切です。

神さまを喜ばせることはできないパウロの答えは、25節に書かれています。
「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」
つまり、パウロが言う解放とは何かというと、イエス・キリストなのです。律法からの解放、方法論からの解放は、イエス・キリストにあるのです。

ですから、イエス・キリストに感謝しているのです。自分がどうあるべきだとか、何をすべきかではなく、イエス・キリストを受け入れ、イエス・キリストのみに頼って生きていくという恵みの世界に生きることが聖書の答えなのです。
あるがままでいい,そのままでいい,罪があっても,弱さがあっても,過去にどんな失敗をしていたとしても,そのままで私のところに来なさい,とイエス様は私たちを招いてくださいます。
 

5) 私の人生のモデルとしてイエス・キリストを仰ぎつづけること

あなたの人生のモデルは誰でしょうか。私はこの人のように生きていきたいというような人がありますか。
私は人生を豊かに生きるためには,モデルを持つということが非常に重要であると思います。私たちがモデルを持つということはどういうことかというと、

まず第1に私たちの心の中に具体的な絵が描かれることで、これは非常に力があることなのです。
オーストリアの精神医学者フランクルは、「元来精神的に高い生活をしていた感じやすい人間」が,「頑丈な身体の人々」よりも,収容所生活をよりよく耐えた」と述べています。(「夜と霧」)

精神的に高い生活をしていた人というのは、さらにいえば、希望のイメージを描いて生きることができた人です。今はこのように厳しい状況にある,しかしそのときにも将来得られるであろう豊かな世界をイメージして生きたのです。
イエス・キリストへの信仰とはそういうことです(ヘブル11章参照)。

イメージするときに,誰を自分のモデルとするか,誰のことをいつもよく考えているか、ということが大切です。
自分は何をやってもうまくいかない。ことごとく失敗するだろう。そういうイメージトレーニングをしているとそういう人になれるんです。

人の批判ばかりしている人は、そういうふうなモデルを自分のうちに持っているのです。あの人はだめだ、あの人はこんな失敗をした、こういう態度にはむかついてくる、というような面をいつも意識して、イメージトレーニングをしている人は、自分もそういう人になっていきます。それが自分のモデルになっているからです。
私たちはイメージを描くと、自分の描いたイメージに近づいていくことが出来ます。

2番目には、イメージは私たちにアイデンティティを与えるのです。
自分が描いているイメージによって、自分が誰かということがわかってきます。自分がなんとなくイメージを持っている、モデルを持っていると、そのモデル自身に自分が似てくるわけです。
そのモデルにおこったのと同じようなことが自分の人生にも起こるようになってきます。

3番目に、イメージを持つと、あるいはモデルを持つと目的がわかってきます。目的というよりも終着点が見えてくるのです。
人生、今30歳であるかもしれないけれど、80歳になっている自分が見えてくるようになります。私たちの終着点を見たいと思ったら、黙示録の21,22章をご覧下さい。神様は、私たちに、私たちの終着点を見せてくださっています。

4番目に、モデルは私たちに方向性を与えます。
決断しなくちゃならないとき、選択しなくちゃならないとき、さてどうしようかな、どうしたらいいだろうかというときに、自分の持っているモデルが助けてくれるんです。
自分が持っているモデルのように、考えたり、選択したりする傾向があるんですね。

第5番目に、自己吟味ができる、モデルがあると自分がどういうものであるかということが分かります。
イエス・キリストをモデルとしてもつと、自分はどこにいるのだろうか。自分が今どこにいてどういう道をたどっているのかということが、分かってきます。
聖書は,あらゆる面で,イエス・キリストをめざしていくことを教えています。

「ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、

むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」
(エフェソ4:13〜16)

 
戻る