キリスト教入門8
第8章 救いの恵みと祝福

最初に、ヘレン・ケラーとマルチン・ルーサー・キング牧師と同志社大学創立者新島襄の言葉を紹介いたします。

ヘレン・ケラー女史

運命に打ち勝つためには、仕事と友人の慰めと、神は必ずよきように導いてくださるという括弧たる信仰とが必要です。

この信仰がなかったら、私の生活は無意味なものとなり、私は「闇の中の黒い柱に過ぎないもの」となるでしょう。人々は私を哀れみますが、それは私の生活の中に私が喜んですんでいる黄金の部屋があることを知らないからです。

私の行く手は暗黒のように見えますが、実はその反対に、心の中に魔法の光を宿し、強力な探照燈である信仰が前途をてらしてくれるのです。

マルチン・ルーサー・キング牧師

神は、われわれが人生の試練や重荷のただ中でまっすぐ立つための、内面的な平衡を与える能力を持っておられる。イエスが「わたしは平安をあなた方に残していく」(ヨハネ14章)といわれた通り、不滅の贈物を賜うのである。

これこそ人知でははかり知ることのできない平安なのだ。われわれが再発見しなければならないのは、唯一有能な神にたいする信仰である。この信仰によって、われわれは、寒寒と荒れ果てた谷間を、日のあたる喜びの小道に変え、悲観論という暗い洞窟に新しい光をもたらすことができる。

新島 襄

「人間の偉大さ。人間の偉大さは彼の学問にあるのではなく、自分自身にとらわれないことにあるのである。学のある人は、よりいっそう利己的になりやすい。十字架上のキリストを仰ぎ見よ。

キリストこそがわれらの模範である。ああ、キリストは何と気高く、偉大で、やさしく見えることか。自己を忘れ、真と善の大目的のために、自分自身を進んでささげようではないか。心から悔い改めて謙虚になろう。これを私は人間の偉大さと呼ぶのである。」

「友よ、どうかキリストがどういう方かをよく考えてください。キリストこそ、暗黒に閉ざされた邪悪な世界を照らし、救いの道へとぼくらを導く光であります。ローソクの光は消えますが、この光は永遠に消えません。」

それぞれの方々が、イエス・キリストを信じて生きる救いの恵みは、いつまでも変わることのない光であり、私たちに終わる事のない光と希望を与えるものであると言っておられます。

救いの恵みとは

聖書がいっている救いとは、人間にとってもっとも根源的、根本的な救いであり、それはどうしてもなくてはならないものです。

あなたは「救い」ということをどのようにお考えでしょうか。

「病気が治ること」「目指す大学に合格すること」「気持ちが休まること」「家庭が円満になること」・・・このようなこともある意味では救いであると思われますが、神のみ子イエス・キリストは、私たちのために十字架にかかってくださり、罪を赦し、いのちを与えるためにこの世にきてくださいました。

聖書は、神様の自己紹介であるといいましたが、この聖書が私たちに教えている救いは、一言でいえば、私たちが主なるまことの神様と仲直りし、神とともに生きる人間本来のいのちある関係が回復させられていくことです。
今回は、この救いがどのようなものであるか。信仰によってどのような恵みを与えられるのかを考えてみましょう。

信仰義認とは

「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。

神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」(ローマ3:21?26)

聖書は、私たちが罪と死から救われるのは、「行いによってではなく」「信仰によって」救われるのであると教えています。ここにも、「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」といわれています。私たちは、イエス・キリストをわが救い主と信じて受け入れるとき、神様のあらゆる救いの恵みに与るようになるのです。

信仰によって、神との関係がまったく変わります。今まで罪びとであり、神の律法によって有罪とされていた私たちが、無罪と宣告されるだけでなく、義人(神と正常な関係にあるもの)とされるのです。これが義認です。
義認には二つの面があります。

一つは、神の目から見て、罪と死の奴隷、滅びに向かう者、有罪とされていた身分を帳消しにしていただく「罪の赦し」です。罪のないものはひとりもいません。すべてのものが罪のために神のさばきを受けて滅びに向かうべきものであり、罪の奴隷の状態でありましたが、私たちが受けるはずのさばきを、神のみ子イエス・キリストが身代わりに受けてくださったのです。

このイエス・キリストによって、罪の負債は既に支払済みなのです。「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはない」のです。(ローマ8:1)

もう一つはさらに積極的な面です。それは義人と認められることです。
もし、罪の赦しだけであれば、マイナスがゼロになったということで、ゼロから再びやり直さなければなりません。
神が私たちに与えてくださる救いの恵みは、罪の赦しだけでなく、義人として私たちを招き入れてくださいます。それは、イエス・キリストがこの世の生涯においてなされた生涯(神のみ心に完全に従い、まさに義人として歩まれました)を私たちのもの、私たちの服従とみなしてくださるのです。

こうして、神のみ心に服従したものに与えられる「永遠の命」が、イエス・キリストを信じるものに与えられるのです。
 

 
子とされる

キリストを信じる信仰によって与えられるもう一つの恵みは、「神の子としていただく」(養子縁組)ということです。
本来「神の子」と呼ばれるべきお方は、永遠の神のみ子イエス・キリスト以外にはありません。私たちは、神によって造られた被造物でしかありません。けれども、イエス・キリストと一つになった結果、私たちは、キリストにあって新しい身分が与えられたのです。

すなわち、キリストとともに、神の国の共同の相続人とされたのです。
「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。」(1ヨハネ3:1)
「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」(ローマ8:16〜17)

先に、私たち人間は神に似せて、神のかたちに造られたことを述べました。神に似せて造られたからこそ、喜んだり悲しんだり、笑ったり泣いたり、美しいものを見て感動したり、自分の意志で決断することもできるのです。
なぜ神さまが、そのように神のかたちに私たちをお造りになったかと言えば、神さまは私たちとともに生きることを望んでおられたのです。神様とともに愛し合う生活を願って私たちを創造されました。

それは、何かお客様のようでよそよそしい態度の付き合いではなく、心からの交わりを願っておられたのです。聖書のローマの信徒への手紙8章14、15節には、「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。」と言われています。

「アッバ、父よ」というのは、子供が父親に向かって「お父ちゃん」と呼ぶような父と子の関係を表しています。
親しく呼びかけあうような意味での「子」として、神様は私たちを迎えてくださるということです。

子としての訓練

イエス様は、石にあるように「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。 彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」(イザヤ書53:3,4)という歩みをなさいました。

また、ヘブル書に言われているように、「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(ヘブル4:15)、また「イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」

イエス様自身、苦しみや痛みを経験なさったからこそ、苦しみにある人を思いやることが出来るのです。
もしあなたが、自分の思い通りの生活がいつも出来たとしたら、私たちは謙遜になれるでしょうか。弱さや痛みを覚える人の心の叫びを聞き届けることが出来るでしょうか。

自分の思い通りに大学に行き、思い通りに就職し、思い通りに出世コースを歩いて健康で裕福な生活をしている。そのように挫折をすることがなかったら、私たちは人々の心の痛みを知ることもなく、人を分け隔て、愛することも分からないままに、傲慢になっていくのではないかと思います。

神は父であり、私たちが子である以上、父なる神は、子に対する自愛に満ちた配慮や保護を与えてくださいます。それとともに、父は私たちを子として訓練なさることも忘れてはなりません。

「また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」(ヘブル12:5〜6)

聖書を見ると、信仰のヒーローたちは、みんな忍耐や試練の時期があったことが分かります。どうして私はこんなところでこんなことをしているんだろう、というようなときもありましたし、試練に遭うこともありました。

ヨセフも13年間ありました。奴隷の家で、あるいは監獄でそれを経験したわけです。ダビデは15歳のときに、あなたはいずれ王様になるであろうと神様に言われたのですが、実際におうになったのは40歳のときですから25年かかっているわけです。モーセはエジプトの王家の娘の子供として育てられましたが、その後エジプト人からもユダヤ人からも非難されるようになって、荒野で40年間羊を飼うようになりました。私はここで何をしているんだろうかと思うこともあったと思います。

神さまは私たちに忍耐の時期を与え、私たちを深め、私たちの信仰を強め、私たちの忍耐力、私たちの品性を育てようとなさるのです。そしてより多くの祝福に導いてくださるというのが聖書のパターンです。

「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。
この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。

あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。
あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。
あなたの神、主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる。それは、平野にも山にも川が流れ、泉が湧き、地下水が溢れる土地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろが実る土地、オリーブの木と蜜のある土地である。」(申命記8:3〜8)

聖とされる

信仰によって与えられる恵は、さらに「聖くされる」ことです。
信じてクリスチャンになったからといって、完全な聖人になったわけではありません。クリスチャンになれば、何も悪いことは考えないし、することはないなどということはありません。クリスチャンになってもこの世の生涯の間は依然として罪も弱さも自分のうちにあることを覚えます。

パウロは自分自身を振り返ってこのように告白しています。
「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。

「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。
わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。
わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。

従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」(ローマ7:19〜8:2)
これは、クリスチャンになった後の、正直なパウロの告白です。彼は自分のうちに依然として罪があることを認めています。これはパウロだけではなく、クリスチャンであれば誰もが感じることでしょう。

しかし、このように罪のうちにある自分自身をきちんと見つめ、自分の罪を自覚し、へりくだり、助けを求めることこそ、自分が神によって清められている一つの姿ということができます。
きよい神に出会うことによって、私たちは自分の暗い部分が分かるし、それをありのままに、ごまかさないで見つめることが出来るようになるのです。

パウロは、イエスキリストの福音を聞き、イエス様が私のために十字架で死んで復活してくださったことを信じたとき、恐れることなく、自分のありのままの姿を見つめることが出来るようになったのです。

また、聖とされるもう一つの面は、それまでは自分を中心に(自分が王様であり主人)考えてきたものが、神さまを中心に(神さまが王様であり主人)、神を神として生きていこうという思いを与えられていくようになるということです。自分の願いではなく、神さまは何を願っているかを考えるようになるということです。

イエス様は、生涯父なる神さまのみ心を求めて生きられましたが、イエスキリストを信じるものはこのイエスキリストに似たものとされていくのです。

永遠のいのち

聖書がかかれた目的は、「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(ヨハネの福音書20:31)ということでした。

神によってすくわれたものに対する最も大きな恵は、まことのいのちを受けることにあります。このいのちは途中で途絶えてしまうものではなく、何かの事情で変更されてしまうようなものではありません。
本来、いのちとはいつまでも続く喜びであり祝福なのです。

イエス様は私たちに、「神の国とその義とをまず第1にもとめなさい。」といわれました。これは言い換えれば、あなた自身の命をまず第1にもとめなさいということであり、神とキリストを知ること(ヨハネ17:3「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」)、キリストにつながりつづけること(ヨハネ15:5「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」を意味しています。

そのようにして私たちは、この世の人生の荒野を、神とともに、神が備えていてくださる神の国というゴールを目指し、信仰と希望をもってこの世を生きるのです。

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(ヘブル11:13〜16)
 

 
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