| 子とされる
キリストを信じる信仰によって与えられるもう一つの恵みは、「神の子としていただく」(養子縁組)ということです。
本来「神の子」と呼ばれるべきお方は、永遠の神のみ子イエス・キリスト以外にはありません。私たちは、神によって造られた被造物でしかありません。けれども、イエス・キリストと一つになった結果、私たちは、キリストにあって新しい身分が与えられたのです。
すなわち、キリストとともに、神の国の共同の相続人とされたのです。
「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。」(1ヨハネ3:1)
「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」(ローマ8:16〜17)
先に、私たち人間は神に似せて、神のかたちに造られたことを述べました。神に似せて造られたからこそ、喜んだり悲しんだり、笑ったり泣いたり、美しいものを見て感動したり、自分の意志で決断することもできるのです。
なぜ神さまが、そのように神のかたちに私たちをお造りになったかと言えば、神さまは私たちとともに生きることを望んでおられたのです。神様とともに愛し合う生活を願って私たちを創造されました。
それは、何かお客様のようでよそよそしい態度の付き合いではなく、心からの交わりを願っておられたのです。聖書のローマの信徒への手紙8章14、15節には、「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。」と言われています。
「アッバ、父よ」というのは、子供が父親に向かって「お父ちゃん」と呼ぶような父と子の関係を表しています。
親しく呼びかけあうような意味での「子」として、神様は私たちを迎えてくださるということです。
子としての訓練
イエス様は、石にあるように「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。 彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」(イザヤ書53:3,4)という歩みをなさいました。
また、ヘブル書に言われているように、「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(ヘブル4:15)、また「イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」
イエス様自身、苦しみや痛みを経験なさったからこそ、苦しみにある人を思いやることが出来るのです。
もしあなたが、自分の思い通りの生活がいつも出来たとしたら、私たちは謙遜になれるでしょうか。弱さや痛みを覚える人の心の叫びを聞き届けることが出来るでしょうか。
自分の思い通りに大学に行き、思い通りに就職し、思い通りに出世コースを歩いて健康で裕福な生活をしている。そのように挫折をすることがなかったら、私たちは人々の心の痛みを知ることもなく、人を分け隔て、愛することも分からないままに、傲慢になっていくのではないかと思います。
神は父であり、私たちが子である以上、父なる神は、子に対する自愛に満ちた配慮や保護を与えてくださいます。それとともに、父は私たちを子として訓練なさることも忘れてはなりません。
「また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」(ヘブル12:5〜6)
聖書を見ると、信仰のヒーローたちは、みんな忍耐や試練の時期があったことが分かります。どうして私はこんなところでこんなことをしているんだろう、というようなときもありましたし、試練に遭うこともありました。
ヨセフも13年間ありました。奴隷の家で、あるいは監獄でそれを経験したわけです。ダビデは15歳のときに、あなたはいずれ王様になるであろうと神様に言われたのですが、実際におうになったのは40歳のときですから25年かかっているわけです。モーセはエジプトの王家の娘の子供として育てられましたが、その後エジプト人からもユダヤ人からも非難されるようになって、荒野で40年間羊を飼うようになりました。私はここで何をしているんだろうかと思うこともあったと思います。
神さまは私たちに忍耐の時期を与え、私たちを深め、私たちの信仰を強め、私たちの忍耐力、私たちの品性を育てようとなさるのです。そしてより多くの祝福に導いてくださるというのが聖書のパターンです。
「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。
この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。
あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。
あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。
あなたの神、主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる。それは、平野にも山にも川が流れ、泉が湧き、地下水が溢れる土地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろが実る土地、オリーブの木と蜜のある土地である。」(申命記8:3〜8)
聖とされる
信仰によって与えられる恵は、さらに「聖くされる」ことです。
信じてクリスチャンになったからといって、完全な聖人になったわけではありません。クリスチャンになれば、何も悪いことは考えないし、することはないなどということはありません。クリスチャンになってもこの世の生涯の間は依然として罪も弱さも自分のうちにあることを覚えます。
パウロは自分自身を振り返ってこのように告白しています。
「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。
「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。
わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。
わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。
従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」(ローマ7:19〜8:2)
これは、クリスチャンになった後の、正直なパウロの告白です。彼は自分のうちに依然として罪があることを認めています。これはパウロだけではなく、クリスチャンであれば誰もが感じることでしょう。
しかし、このように罪のうちにある自分自身をきちんと見つめ、自分の罪を自覚し、へりくだり、助けを求めることこそ、自分が神によって清められている一つの姿ということができます。
きよい神に出会うことによって、私たちは自分の暗い部分が分かるし、それをありのままに、ごまかさないで見つめることが出来るようになるのです。
パウロは、イエスキリストの福音を聞き、イエス様が私のために十字架で死んで復活してくださったことを信じたとき、恐れることなく、自分のありのままの姿を見つめることが出来るようになったのです。
また、聖とされるもう一つの面は、それまでは自分を中心に(自分が王様であり主人)考えてきたものが、神さまを中心に(神さまが王様であり主人)、神を神として生きていこうという思いを与えられていくようになるということです。自分の願いではなく、神さまは何を願っているかを考えるようになるということです。
イエス様は、生涯父なる神さまのみ心を求めて生きられましたが、イエスキリストを信じるものはこのイエスキリストに似たものとされていくのです。
永遠のいのち
聖書がかかれた目的は、「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(ヨハネの福音書20:31)ということでした。
神によってすくわれたものに対する最も大きな恵は、まことのいのちを受けることにあります。このいのちは途中で途絶えてしまうものではなく、何かの事情で変更されてしまうようなものではありません。
本来、いのちとはいつまでも続く喜びであり祝福なのです。
イエス様は私たちに、「神の国とその義とをまず第1にもとめなさい。」といわれました。これは言い換えれば、あなた自身の命をまず第1にもとめなさいということであり、神とキリストを知ること(ヨハネ17:3「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」)、キリストにつながりつづけること(ヨハネ15:5「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」を意味しています。
そのようにして私たちは、この世の人生の荒野を、神とともに、神が備えていてくださる神の国というゴールを目指し、信仰と希望をもってこの世を生きるのです。
「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(ヘブル11:13〜16)
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