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| 第5章で私たちは、神の子イエス・キリストが十字架の上でなされた、救いのわざについて学びました。御子イエスは、私たちの罪がゆるされるために、十字架の上で私たちの罪の値を払い死んでくださったのです。そして今、よみがえって、私たちの救い主となっておられるのです。
しかし、ここで忘れてはならない非常に大切なことがあります。それは、神の子イエスが十字架の上で死なれたことは、すべての人が無条件で救われることを意味するのではないというのです。なるほどすべての人が救われる可能性はできました。
ジェンナーという医師が、種痘を考え出すまで、「ほうそう」は恐ろしい病気でした。しかし、種痘ができたおかげで、たくさんの人の命が守られました。しかし、種痘があるにもかかわらず、依然として死ぬ人があったのです。なぜでしょうか。それはその人たちが、腕に種痘を植えてもらわなかったからです。 同じことが、イエス様の十字架についても言えます。神の子イエスは、私たちを永遠の死から救うため、私たちの代わりに十字架にかかり、罪の値をことごとく払ってくださいました。しかし、それにもかかわらず、ある人は救われ、ある人は自分の罪のために滅びるのです。 イエス・キリストの十字架のみわざを信じて自分のものにするか、あるいは信じないかが、このような永遠の開きを生みだすのです。 これによってわかるように、私たちを実際に救うものは信仰です。悔い改めて、罪を言い表しそれを離れるだけでは不十分です。そのうえにもう一つのこと、すなわち信仰がぜひとも必要なのです。十字架について知っているだけでは救われません。イエス・キリストを私の救い主として受け入れ、十字架の上でなされた救いのみわざを自分のものとする信仰によって救われるのです。 これについて、聖書には「御子(イエス)を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている」(ヨハネ3:18)といわれております。 ここではまず、このキリストの完成してくださった救いを、私たちに取り次ぎ、私たちを実際にキリストのものにしてくださるのは、これもまた神様のわざ、聖霊の働きによるのだということを確認しておきましょう。 聖霊の働き 聖霊というと、なんだかぼんやりしたものでよく分からないという方もあろうかと思います。聖書では、聖霊についてぼんやりしたものや神の影響力というようなものではなく、神そのものであると教えています。
三位一体の神が私たちに働かれる関係は、あえて分けて考えるなら、父なる神が救いのみわざを計画し、子が実行し、聖霊が適用、実施してくださると理解してよいでしょう。私たちの救いのために、三位一体の神が、今日も働いてくださっているわけです。 今、聖霊はキリストの救いの恵を私たちに取り次ぎ、私たちに信仰を与え、神様との関係を回復し、人間らしい本来のあり方へと私たちを導いてくださるのです。 神の召し 私たちが、主なる神に出会い、救われるみちすじをイエスキリストが切り開いてくださいましたが、その救いを私のものにするために、神様は聖霊を与えてくださいました。 あなたは自分の決断で聖書を学び、礼拝に出席し、このようなキリスト教入門講座を学んでくださっておりますが、これはあなたにそのような願いを起こさせてくださる神様の働きがあったのだということをも覚えてください。 「あなた方に願いを起こさせ、それを実現に至らせてくださるのは神です。」と言われているとおりです。私たちが神を信じて救われるのは、実は私たちのうちに働いてくださる聖霊の働きがあったのです。それは、私たちを内側から新しくし、福音を私への福音として聞く心を与えてくださるのです。これを新生、あるいは再生とよびます。これが信仰への神の決定的な召しなのです。 聖霊によって導かれ、新生した人は、福音を聞いて悔い改めと信仰に導かれていきます。祈りをもって、聖霊のお働きに私たち自身をゆだねていきましょう。 生命にいたる悔い改め イエスキリストが救い主であり、私たちのために十字架であがないのしを遂げてくださったことは分かりましたが、次の問題は、どうしたら私が救いを得ることが出来るのかということです。キリストのあがないを私のものにする実際的な方法です。 この点についてイエス様は、「悔い改めて、福音を信ぜよ。」(マルコ1:15)と言われました。また、パウロは、自分の説教を要約して、「神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきた。」(使徒20:21)と言っております。 私たちが実際に救いを手に入れるためには「悔い改めと信仰」が必要なのです。この二つは別々のものではなく、お互いに関係しあい、悔い改めが深ければ深いほど信仰も増していくといってよいでしょう。
そのためにはまず、第1に自分の罪を正直に認めることです。あの人はどうだ、この人はどうだという前に、自分は神様の前にどうであるか、正直に自分自身を見つめるなら、自分には罪がないといえる人は一人もいないでしょう。
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| キリストへの信仰
では、信仰とはどういうことでしょうか。
「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネの福音書17:3) 第2は、受け入れることです。
歴史の年表を暗記するように、イエスキリストの生涯を知っていても、それだけでは何の役にも立ちません。このイエスキリストを私の救い主、キリストとして受け入れる信仰の決断が必要です。 第3は、信頼してお任せすることです。
本当に信頼できるもの、信頼すべきものを求めてください。
イエス様は、人々が幼子たちを自分のところに連れてきた時、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われました。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(ルカの福音書18:16〜17) 信仰とは神に信頼することです。私たちの造り主であり、私たちのいのちを今日も育んでくださり、イエスキリストにおいて深い愛を示してくださっている私たちのまことの父を信頼することです。
幼子であったときは、両親を信頼していました。しかしやがて大きくなってくると、その両親にも限界があったり、欠けたところや弱さも罪もあることが分かるようになります。あの人この人から傷つけられたり、裏切られるようなこともあるかもしれません。この世には完全な人などいないことにも気が付くようになります。 それである人は、「信じられるのは自分だけだ」という思いの中で、自己啓発に取り組もうとします。心理学の成果から見れば、確かに肯定的な考え方は大切なのですが、それでも「自分がそれほど信頼できるのか」ということについては、正直に自分を振り返ってみるならば、自分のうちにもさまざまな欠けがあり、弱さも罪もあることを認めざるを得ないのです。 先に、「私たちは神に造られたのであるから、神のもとに帰るまでは、平安がない」というアウグスティヌスの言葉をご紹介いたしましたが、これは私たちはみな真実に信頼できるお方にめぐり合うまでは平安がないということでもあります。
信仰による救い 聖書の中には、わたしたちが信仰によってのみ救われるということばがくり返しくり返し出てきます。今、その幾つかをあげてみましょう。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世(私たち)を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」、
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたし(イエス)のことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです」(ヨハネ5:24)。
信仰と希望 信仰を持って生きるということは、希望をもって生きることと結びついています。「希望ってなんですか?」といわれたら、「希望は信仰から生まれます。信仰を持つと希望が湧いてくるんですよ。」と答えます。
Aさんは、お見舞いに来る人にも、病院の関係者の方にも、だれにも笑顔で相手への思いやりを持って生きられました。それだけではありません。Aさんは、毎日聖書を読むこととお祈りをすることが日課となっていました。
Aさんは、聖書の詩篇23編を愛読しておられましたが、それは次のようなみ言葉です。 「賛歌。ダビデの詩。 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
イエスキリストが私の牧者であるから、私を導いてくださるから、私にはなんの乏しいこともない。死の影の谷を行くときにも、私は災いを恐れない。あなたがわたしとともにいてくださる。」 クリスチャンになれば、何の困難も苦しいこともないとくことではありません。困難なことや試練はあるのですが、そのようなときにも変わることのない希望をもって生きることが出来るのです。この希望は失望に終わることはありません。
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