キリスト教入門5
第5章 罪と死について
放蕩息子のたとえでは、その息子が「死んでいたのに生き返り」といわれていました。また、イエス様に香油を注いだ女性の場合には、「あなたの罪は赦された」といわれています。

このような表現は、聖書以外には余り耳にすることはないかもしれません。しかし、ここに人間がどうしても解決しなければならない根本的な問題が指摘されているわけです。すなわち、「罪と死」の問題です。これを解決する道は、イエス・キリストという門をとおっていく以外にはないのです。

なぜキリスト教なのですか。

「仏教でも、キリスト教でも、創価学会でも、天理教でも結局は同じ事を教えていて、方法は違っていても、結局は同じところにたどり着くんじゃないですか。結局は人間の幸福を目指しているということでしょう。」このようにいわれる方がよくあります。
確かによく似ているな、真似したんじゃないの、と思われるところもたくさんあるようですが、聖書を学んでいくと、キリスト教と他の宗教では根本的に違っていることを教えられます。どういう点が違っているのでしょうか。

1) 主なる神の言葉とわざによる啓示の宗教

宗教には2種類あります。一つは人間の願望、利益、宗教心によって造られた人造の宗教です。こうした宗教を批判して、宗教は人間の願望の投影に過ぎないといった人もあります。もう一つは、神の側から自己を紹介された啓示の宗教です。キリスト教は啓示の宗教です。啓示とは、「おおいを取り除く」「あらわに語る」という意味です。
 人間のご利益を追求するだけの宗教は、人それぞれが自分たちの利益を追求しますから本質が見えません。

2) 人の知恵と力は神の知恵と力に及びません
 
 私たちは、神の自己紹介である啓示によらなければ、正しく神を知ることも自分を知ることもできません。聖書には、私たちを愛し、私たちをすくいたもう神のみ心が、この歴史の出来事の中から、具体的で私たちに分かるように示されています。キリスト教信仰は、人間の作り上げた神や人間の知恵によってではなく、神によって語られ、実現されている真理を信じて生きるものです。
 
3) 罪が赦される確かな根拠があります
 
  これについては次の章以降でふれることになりますが、以下に述べるような人間の罪と死に対して、人間はまったくなすすべを知らないのです。神のみ子イエス・キリストの生と死と復活こそが私たちが救われる唯一の根拠です。
「この方【イエス・キリスト】こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」【使徒言行録4:11?12】

 自動車の具合が悪いので、修理工場に持っていきました。そうすると、
 「バッテリーを交換して、あとオイルエレメントとエンジンオイルを交換してみます。これでなんとかなるでしょう。」
 ところが、実際は、1ヶ月もすると前よりさらに調子が悪くなって、動かなくなってしまいました。別の修理工場で聞いてみました。
 「これはエンジンがいかれてもうとるから、修理ではなんともなりません。別の車を買うことをお勧めします。」ということでした。
 よく調べてみると、この自動車は修理では間に合わない。新しくする必要があることが分かったのです。人間の罪と死の問題もこれと同じ事なのです。人間は生まれながらに罪のうちにありますから、生まれながらの人間が知識を蓄え、勉強し、能力をつけてがんばってみても、それだけでは自らの罪と死の問題をどうすることもできないのです。
 イエス様は言われました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
そうです、人が罪と死から救われ、父なる神との正しい関係に入れられていくためには、神によって新しくされなければならないのです。どんなに、人間の努力や行いによって、たくさんの修行を積んだとしても新しくなることはできないのです。
人はどんなに努力を重ねても、自分で自分を救い出すことはできません。むしろ私たちは、事あるごとに、自分の無力さを痛感しているのではないでしょうか。
このような私たちが、信仰によって救われる道をイエス・キリストは私たちのために開いてくださいました。救いとは何かということを理解するためには、どうしても罪と死について考えていく必要があります。
 

 
罪の起源

神のかたちとして造られた人間は本来すばらしいものです。
ところが、自分を含めた人間の営みを見るとき、それほどすばらしいようには思えないこともたくさんあります。世界は混乱し、不義や偽りが蔓延し、すべての人が病と老いで死んでいきます。人間の社会だけではありません。自然においてもさまざまなうめきがあることを聖書も指摘しています。この悲惨の原因はいったいどこにあるのでしょうか。

神によって造られた最初の人間アダムは、エデンの園で神様から一つだけ命じられていたことがあります。それは、「主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2:16〜17)というものでした。

アダムはこの命令を破り、その木の実を食べたのですが、これこそ、神にたいする不服従の罪でした。このことによって、アダムは最初に造られた状態から落ち(これを堕落と言います)、この結果がその後のすべての人類に及ぼされました。

行為としては、木の実を食べたというだけのことですが、神様の命令を破ったことが、重大な結果を引き起こすことになりました。なぜ破ってしまったのかと言えば、彼らは神のようになりたいと思い、(神をないがしろにして)自分勝手に行動しようとしたからです。

罪の結果

「ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」と言われていました。彼らはその言葉の通り、体は生きていても死んでしまったのです。

神によって創造され、神との交わりの中で生きるべき人間は、神を離れ、神なしでやっていけると考えて行動した結果は破滅です。
罪は当然、聖く正しい神の怒りと呪いを受けずにはすまされません。以下は人間が、体は生きていても死んでしまっている姿です。

1) 生ける神との断絶

「主の手が短くて救えないのではない。 主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が 神とお前たちとの間を隔て お前たちの罪が神の御顔を隠させ お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。」(イザヤ59:2)
罪人は、そのままでは神の前に立つことができません。人間の一切の不幸の原因は主なる神様との断絶にあるのです。

2) 全的無能力
神を離れた結果は、神を知ることも自分を知ることも、自分がどこから来てどこに行くのかという人生の目標もまとはずれとなり、人間の思いや行いも本来あるべき姿から外れてしまいました。

「地を従わせよ」(創世記1:28)という文化命令も果たしえず、かえって混乱を招いているのが現状です。神の代理として、神のみ心に従って世界と自然を管理するのではなく、人間が自分が神であるかのように、自分の利益の追求と繁栄のために、搾取する世界となってしまいました。

3) 罪のむくいとしての死

「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」(ローマ5:12)

神様がいのちの源なのですから、神を離れると言うことは死を意味しています。本来人間は、いのちの神とともに歩み、神の恵みのうちに生きるべきものでしたが、アダムの罪によって、その子孫である人類には死が入り込んできました。死は人間にとって本来のものではなく、罪の結果なのです。「罪が支払う報酬は死です。」(ローマ6:23)、「罪を犯した者、その人が死ぬ。」(エゼキエル18:4)とある通りです。

4) 第二の死

死は肉体の死だけではありません。
聖書は、「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)と言われています。

死が恐ろしいのは、その後にさばきがあるからです。
正しい裁判官は、罪をいいかげんにあしらうことはしません。「あなたは、○○円窃盗したけれど、まあ済んでしまったことだ。なかったことにしよう。あなたは、保険金目当てに○○家の放火をしたが、別に悪気はなかったようだから罪には問わないことにしよう。」などという判決を下していたら、それでは正義を守ることにはなりません。

神様はこの世界をおつくりになったばかりでなく、これを治めて、例えば信じるものにも信じていないものにも太陽を昇らせ、雨を降らせていてくださいます。しかし、神様は終わりのときに罪をさばく正義の神でもあられるのです。
ヨハネの黙示録には、この世の終わりのことがかかれていますが、20章12節以下には次のように言われています。

「わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。
死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。」

「第2の死」は、肉体の死の後で、死者たちが罪によってさばかれ、火の池に投げ込まれるという永遠の滅びにいたることを表しています。
命の書に名前がかかれていないものは、神によってさばかれて第2の死を迎えるのです。

正しい人はいない、ひとりもいない

罪あるものは「それぞれ自分の行いに応じてさばかれる」というのですが、このように言われると、私はあの殺人犯や、前科のある人よりはましだ、あのうそばかりついているむかつくやろうよりはましだ、多少の問題はあってもまあ誠実に暮らしてきたということで、それほど罪の自覚は持っていない人もあるかもしれません。

聖書はどのように言っているかと言うと、ローマの信徒への手紙を見てみましょう。
「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。」(ローマ1:18)

神に対する不信心と不義に対して神の怒りが下るのだと言われています。
「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。」(1:20〜21)

「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。
彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない。」

(ローマ3:10〜18)
神様がご覧になって、正しい人はひとりもいないというのです。
私たちは、「あの人よりはましだ」などと思っていても、神様から見るなら、正しい人はひとりもいないというのが私たちの現実だということです。

私たちは、ひとりのこらず、救われなければならない人間です。罪を赦していただかなければ滅びるべき人間なのです。罪の赦しを必要としているのです。実はこのことが、私たちの生涯の最優先課題として取り組まなければならない問題なのです。

罪の連帯
このアダムとエバの罪とその結果が、どうして全人類に及ぶのでしょうか。
渋柿は、そのままでは何年経っても渋柿のままです。渋柿は大きくなって、木が悪くなったから渋柿になったのでしょうか。そうではありませんね。それは元々渋い実しかならない木だったのです。聖書の中に、「悪い木は悪い実を結ぶ・・・悪い木がよい実をならせる事はない」(マタイ7:17〜18)といわれている通りです。

私たちの罪もこれに似ています。成長して悪くなり、ついに罪を犯すのではなくて、元から悪かったのです。元から神を離れていることによって、実際の罪を犯すようになったのです。アダムの罪とその結果は、アダムの子孫である全人類に受け継がれています。これが原罪といわれるものです。

三浦綾子の小説「氷点」の中に、自分の血の中を流れる罪(原罪)と、いつ自分も犯すかもしれない罪の可能性を見出した陽子が、生きる望みを失って死を選ぼうとする場面があります。
このように、私たちはアダムの子孫として陽子のように、ひとりのこらず、罪の中に生まれ、原罪を受け継いでいます。ですから、聖書が「正しいものはいない。ひとりもいない」と述べているように、すべての人が神の前に罪人であり、また現実の罪を犯していることに気づかなければなりません。

聖書の詩篇51編には、ダビデが自分の罪を指摘されたときに、自分の罪を自覚し、悔い改めて祈った、神様に対する祈りが記されています。
「神よ、わたしを憐れんでください 御慈しみをもって。 深い御憐れみをもって 背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い 罪から清めてください。
あなたに背いたことをわたしは知っています。 わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し 御目に悪事と見られることをしました。 あなたの言われることは正しく あなたの裁きに誤りはありません。
わたしは咎のうちに産み落とされ 母がわたしを身ごもったときも わたしは罪のうちにあったのです。」(詩篇51編1〜7節)

ダビデはここで、神に対して罪を犯したと告白していますが、実は私たちも、うそをついたり、人の心や体を傷つけたりしたときにも、神様に対して罪を犯しているのです。神様を悲しませることをしているのです。

ダビデのこのような祈りは、一回限りのものではなかったことでしょう。私も自分の罪を覚えながら、涙を流して同じようなお祈りをしたことが幾度もあります。そのたびに、あの父親に出会った放蕩息子のように、あるいは「あなたの罪は赦された」という言葉を聞いたマリヤのように、神様のお恵みを心から感謝することが出来ました。

人間の罪は、道徳教育などによって矯正され、回復することが出来ないものです。渋柿にいくら肥料をやって、手入れをしても渋柿は渋柿、渋は取れません。渋柿はただ、甘い柿木に接ぎ木される以外にないのです。私たちの罪の性質が取り除かれるためには、そして罪が赦されるためには、キリストにつながる以外にないのです。

キリスト教は、なぜあなたを罪びとと呼ぶのでしょうか。それは罪を知らなければ、自分の現実がまだわかっていないことですし、罪の赦しもその必要性もわからないからです。神から離れている自分の姿を知った人だけが、神に立ち返ることができるのです。あなたもダビデのように自分の罪を認め、その罪の根本的な解決をイエスキリストのうちに見出してください。
 


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