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| 放蕩息子のたとえでは、その息子が「死んでいたのに生き返り」といわれていました。また、イエス様に香油を注いだ女性の場合には、「あなたの罪は赦された」といわれています。
このような表現は、聖書以外には余り耳にすることはないかもしれません。しかし、ここに人間がどうしても解決しなければならない根本的な問題が指摘されているわけです。すなわち、「罪と死」の問題です。これを解決する道は、イエス・キリストという門をとおっていく以外にはないのです。 なぜキリスト教なのですか。 「仏教でも、キリスト教でも、創価学会でも、天理教でも結局は同じ事を教えていて、方法は違っていても、結局は同じところにたどり着くんじゃないですか。結局は人間の幸福を目指しているということでしょう。」このようにいわれる方がよくあります。
1) 主なる神の言葉とわざによる啓示の宗教 宗教には2種類あります。一つは人間の願望、利益、宗教心によって造られた人造の宗教です。こうした宗教を批判して、宗教は人間の願望の投影に過ぎないといった人もあります。もう一つは、神の側から自己を紹介された啓示の宗教です。キリスト教は啓示の宗教です。啓示とは、「おおいを取り除く」「あらわに語る」という意味です。
2) 人の知恵と力は神の知恵と力に及びません
自動車の具合が悪いので、修理工場に持っていきました。そうすると、
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| 罪の起源
神のかたちとして造られた人間は本来すばらしいものです。
神によって造られた最初の人間アダムは、エデンの園で神様から一つだけ命じられていたことがあります。それは、「主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2:16〜17)というものでした。 アダムはこの命令を破り、その木の実を食べたのですが、これこそ、神にたいする不服従の罪でした。このことによって、アダムは最初に造られた状態から落ち(これを堕落と言います)、この結果がその後のすべての人類に及ぼされました。 行為としては、木の実を食べたというだけのことですが、神様の命令を破ったことが、重大な結果を引き起こすことになりました。なぜ破ってしまったのかと言えば、彼らは神のようになりたいと思い、(神をないがしろにして)自分勝手に行動しようとしたからです。 罪の結果 「ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」と言われていました。彼らはその言葉の通り、体は生きていても死んでしまったのです。 神によって創造され、神との交わりの中で生きるべき人間は、神を離れ、神なしでやっていけると考えて行動した結果は破滅です。
1) 生ける神との断絶 「主の手が短くて救えないのではない。 主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が 神とお前たちとの間を隔て お前たちの罪が神の御顔を隠させ お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。」(イザヤ59:2)
2) 全的無能力
「地を従わせよ」(創世記1:28)という文化命令も果たしえず、かえって混乱を招いているのが現状です。神の代理として、神のみ心に従って世界と自然を管理するのではなく、人間が自分が神であるかのように、自分の利益の追求と繁栄のために、搾取する世界となってしまいました。 3) 罪のむくいとしての死 「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」(ローマ5:12) 神様がいのちの源なのですから、神を離れると言うことは死を意味しています。本来人間は、いのちの神とともに歩み、神の恵みのうちに生きるべきものでしたが、アダムの罪によって、その子孫である人類には死が入り込んできました。死は人間にとって本来のものではなく、罪の結果なのです。「罪が支払う報酬は死です。」(ローマ6:23)、「罪を犯した者、その人が死ぬ。」(エゼキエル18:4)とある通りです。 4) 第二の死 死は肉体の死だけではありません。
死が恐ろしいのは、その後にさばきがあるからです。
神様はこの世界をおつくりになったばかりでなく、これを治めて、例えば信じるものにも信じていないものにも太陽を昇らせ、雨を降らせていてくださいます。しかし、神様は終わりのときに罪をさばく正義の神でもあられるのです。
「わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。
「第2の死」は、肉体の死の後で、死者たちが罪によってさばかれ、火の池に投げ込まれるという永遠の滅びにいたることを表しています。
正しい人はいない、ひとりもいない 罪あるものは「それぞれ自分の行いに応じてさばかれる」というのですが、このように言われると、私はあの殺人犯や、前科のある人よりはましだ、あのうそばかりついているむかつくやろうよりはましだ、多少の問題はあってもまあ誠実に暮らしてきたということで、それほど罪の自覚は持っていない人もあるかもしれません。 聖書はどのように言っているかと言うと、ローマの信徒への手紙を見てみましょう。
神に対する不信心と不義に対して神の怒りが下るのだと言われています。
「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。
(ローマ3:10〜18)
私たちは、ひとりのこらず、救われなければならない人間です。罪を赦していただかなければ滅びるべき人間なのです。罪の赦しを必要としているのです。実はこのことが、私たちの生涯の最優先課題として取り組まなければならない問題なのです。 罪の連帯
私たちの罪もこれに似ています。成長して悪くなり、ついに罪を犯すのではなくて、元から悪かったのです。元から神を離れていることによって、実際の罪を犯すようになったのです。アダムの罪とその結果は、アダムの子孫である全人類に受け継がれています。これが原罪といわれるものです。 三浦綾子の小説「氷点」の中に、自分の血の中を流れる罪(原罪)と、いつ自分も犯すかもしれない罪の可能性を見出した陽子が、生きる望みを失って死を選ぼうとする場面があります。
聖書の詩篇51編には、ダビデが自分の罪を指摘されたときに、自分の罪を自覚し、悔い改めて祈った、神様に対する祈りが記されています。
ダビデはここで、神に対して罪を犯したと告白していますが、実は私たちも、うそをついたり、人の心や体を傷つけたりしたときにも、神様に対して罪を犯しているのです。神様を悲しませることをしているのです。 ダビデのこのような祈りは、一回限りのものではなかったことでしょう。私も自分の罪を覚えながら、涙を流して同じようなお祈りをしたことが幾度もあります。そのたびに、あの父親に出会った放蕩息子のように、あるいは「あなたの罪は赦された」という言葉を聞いたマリヤのように、神様のお恵みを心から感謝することが出来ました。 人間の罪は、道徳教育などによって矯正され、回復することが出来ないものです。渋柿にいくら肥料をやって、手入れをしても渋柿は渋柿、渋は取れません。渋柿はただ、甘い柿木に接ぎ木される以外にないのです。私たちの罪の性質が取り除かれるためには、そして罪が赦されるためには、キリストにつながる以外にないのです。 キリスト教は、なぜあなたを罪びとと呼ぶのでしょうか。それは罪を知らなければ、自分の現実がまだわかっていないことですし、罪の赦しもその必要性もわからないからです。神から離れている自分の姿を知った人だけが、神に立ち返ることができるのです。あなたもダビデのように自分の罪を認め、その罪の根本的な解決をイエスキリストのうちに見出してください。
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