キリスト教入門4
第4章 闇から光へ
日本語の「人」という字は、人間がお互いに支えあっていく姿をあらわしています。人間のあり方を表す興味深い言葉ですが、この人間は、神様によって造られ、生かされていることを学びました。人は神様のかたちに似せて造られましたから、どの人もかけがえのない大切な人格を持っているのです。

ところが、その人間が、本来あるべきところから離れてしまっていること、神のもとを離れて罪と死のうちにあることを聖書は教えています。

罪とは本来まとはずれであるということを意味しています。どんなに努力や苦労を重ねても、私たちの人生が的はずれの人生であったならば意味がありません。
 

あるべきところから外れている

ルカによる福音書15章には、有名な「放蕩息子のたとえ」といわれるイエス様のたとえ話があります。

「また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。
弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。
何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。
何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。
それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。
彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。
そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。
ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。
もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』
そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』
しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。
それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。
この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。」(ルカによる福音書15:11〜24)

一度聞けばストーリーは分かると思います。
聖書はすべて、神様からの今の私への言葉として聞くことができるのですが、私はこのたとえ話を読むたびに、神様から離れていた自分、そして今でも神を忘れてしまうことがある自分と、そんな私を招いてくださる神様の愛を感じるのです。

かわいい子には旅をさせよ、という言葉があります。旅によって人は成長し、改めて自分を見つめるようになり、自立する心が養われていくことがあります。
しかし、考えてみると、私たちは自分の家にいたとしても人生のたびを続けていることに変わりはありません。この人生のたびにおいて、私たちが父なる神と出会い、神のみ手の中で生きることの幸いを聖書は語っています。
息子は父親のもとを離れて遠い国に旅立つのですが、そこで放蕩に身を持ち崩し、財産を使い果たし、惨めな生活をするようになりました。

これは、たとえ話として分かりやすく書かれているわけで、実際の惨めな生活は、必ずしもお金があるかないかというような事ではないでしょう。お金や財産があっても惨めな生活をしているということはよくあることです。
ともかく、食べ物にも困るような生活をするようになって、この息子は自分が父親に対して申し訳ないことをした。雇い人としてでもいいから父のもとに返ろうと決心するのです。
「彼は我に返って言った。」という言葉には、正直に自分を見つめるようになった。本来の自分に返った。という彼の思いが伺われます。

私たちは、とかく自分を棚に上げて人の悪い点を指摘する傾向があります。しかもそういう傾向のある人は、自分自身にも自信が持てず、心のどこかに恐れや不安を抱いているようです。
だからこそその不安をかけ消すようにして、人の欠点を指摘したり、スキャンダルに快感を感じたりするのです。不安を拭い去ろうとして自分をごまかしていますから、なかなか自分のあるがままの姿を直視することができません。
正直に自分を見つめることができるようになるのは、放蕩息子に表されているような父親が、私の天の父なのだということを知ることから始まります。

第2章にも述べたように、私たちの主である神様は、あなたを大切なかけがえのないいのちとして覚えておられます。そしてあなたが天の父のもとに帰ってくるのを忍耐を持って待ちつづけておられるのです。

罪とは、あるべきところにいないこと

放蕩息子のたとえでは、親不孝をして家出をし、財産をすべて失い、体も心もぼろぼろになって返ってきた息子に対して、父親は「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」と言われています。

「まだ遠く離れていたのに」見つけたということは、この父親は、来る日も来る日も、息子の帰りを待ちつづけていたということです。そしてぼろぼろになって返ってきた息子を喜んで迎えるのです。
この父親とは、いうまでもなく私たちの造り主であり、今日もいのちをはぐくんでいてくださる父なる神ですが、この父親は、息子が帰ってきたときにこういうのです。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」そして、祝宴を始めた。」

「この息子は、死んでいたのに生き返った」というのです。なんだか大げさな表現だな、と思われるかも分かりませんが、事実そうなのです。
この息子は、神様によって、父親によって生かされてきたのに、そのことを忘れて、神様がいなくても自分はやっていける、そうした思いの中で神様から離れていたときに息子は既に死んでいたのです。
豚を飼うような惨めな状態になったときに初めてというのではなくて、まだ財産があって、飲めや歌えと自分勝手なことをしていたときに、その人は既に死んでいたのです。

罪というのは、そのようにして神を離れる事であり、私たち自身を殺すことです。その罪の中にある私たちを救おうとして神様のほうから走りよってくださる。イエス・キリストを通してなされた救いのみ業はそのことを教えています。
神を離れては私たちは何もできないことを忘れてはなりません。

罪とは自分を見失うこと

夜の山手線に乗っていたときのことですが、そこにはサラリーマンやOLの方々が大勢乗っていました。顔が赤いのでお酒によっているんだなと思われる方もありましたが、その方々の表情を見ていると、「私が誰であるか教えてください」といっているように思われました。

先の放蕩息子のたとえの中に、「本心に立ち返って」ということばがありました。この言葉のギリシャ語には、「自分自身の中に戻ってくる」という意味があります。つまり、この息子はそれまでは自分自身の中にいなかった。自分自身を見失っていたということです。

私たちは、自分のやりたいようにしたいという思いが誰にでもあります。それはすばらしいことなのですが、神様のことやほかの人のことを考えないで自分のやりたいようにやろうとすると問題が出てきます。

放蕩息子がどうして家を出て行ったのか。親の言うことを聞いたり、家族や使用人の方々と仲良くしたり、会社に入ったり、学校に行ったり、勉強したり、こういう生活はどこか窮屈な気がする、本当の自分はこんなものではないんじゃないか。どこか遠くに行って、父親の干渉も受けないで好きなことをしたら自分らしい生活ができるんじゃないか、そう考えたのかもしれません。

しかし、本当はそれは自分らしく生きてきたのではありませんでした。彼は本当の自分を求めたつもりだったのかもしれませんが、自分勝手にやったに過ぎなかったのです。彼は父親のもとを離れてから、自分自身と出会うこともできなかったのです。

しかし、人生のあるときに、彼は本心に返った。自分自身と出会うようになるのです。それは彼の心が打ち砕かれたときでした。打ち砕かれて心を父(なる神)に向けたときでした。

 
人生を変えるキリストとの出会い

あなたが自分を知りたいと思うなら聖書を読むことです。聖書を読むときに、聖書は鏡として私たちを映し出してくれます。聖書は、あたかも鏡のように私たちの本質を映し出すのです。

私たちを映し出す大切な点の一つは、人間が神のかたちに造られたことです。人格を持つものとして造られた人間のすばらしさについて、既に2章でお話いたしました。
もう一つの点は、聖書は私たちの赦しを映し出す鏡であるという点です。

ルカによる福音書7章36節以下には、ある女性がイエス様に出会って自分に出会い、罪を赦された喜びを持って生きるようになったことが記されています。私はこの女性が、マグダラのマリヤだったと思います。

宗教の指導者であるパリサイ人のシモンという人が、イエス様を食事に招きました。そのときは家の中庭で食事をしておられたようです。「すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った」(ルカ37〜38)と言われています。

「罪深い女」と言われていますが、彼女がマグダラのマリヤであるとすれば、マグダラでは有名なマリヤ、水商売をしていて知れ渡っている、有名なマリヤという売春婦です。けばい服を着て、分厚いお化粧をして、髪を染めている、いかがわしい女という感じの女性がやってきて、涙でイエス様の足をぬぐい、香油を塗ったというのです。
異様な光景を見つめている周りの人々の気持ちがわかるようです。

この食事の席に集まった多くの人は、この女性を見下して、「ここはおまえのようなやつの来るところではない。すぐに出て行くがいい。」そういって追い返そうとしたのではないでしょうか。
シモンは、彼女を好きなようにさせているイエス様にも不平を言っています。「イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。」〔37節〕

これはおそらく、シモンだけではなく、そこにいた多くの人たちの思いであったことでしょう。事実この女性はたくさんの罪を重ねてきたのです。しかし、イエス様は、この女性を「罪深い女」という視点ではご覧になりませんでした。
いやむしろ、罪深い者だからこそ、招いてくださる神様の愛を、キリストは示しておられるのです。
なぜ、マグダラのマリヤはイエス様の所へやって来たのでしょうか。自分の罪深さを知っている人がわざわざ自分の罪をあばいたり、さばいたりする人の所へやって来るでしょうか。

マグダラのマリヤはイエス・キリストの内に、圧倒的な赦しを見たのです。イエスは父なる神を映す鏡として来られたのですが、イエス様を見たときにそこに父なる神の赦しが豊かに現れていたのです。
この人の所へ行ったら、私の気持ちを理解してくれる。この人は私をさばかない。責めない。この人なら、私の罪をおおってくださる。
そのことをマグダラのマリヤは直感的に理解したのです。イエス様は、今まで私が知っている男とは全く違うということが彼女にはわかりました。

また彼女のすばらしい点は、娼婦の姿のままでイエス様のもとへ行ったことにあります。見るからに娼婦という格好をしていましたから、パリサイ人のシモンが彼女を見たときに、ああ、あの罪深い女だとすぐにわかったのです。彼女はありのままの姿でイエス様の所へ行きました。

たとえ、私たちが見かけを繕って、仮面をかぶって神の御前に出ても、それはまったく意味がありません。それでも神は私たちを愛してくださいますが、私たちの方に愛されたという実感がわきません。本当の自分は愛されないかもしれないという不安が残ります。しかし、この女はありのままの姿でイエス・キリストの所へ行ったのです。

そして、彼女は泣いたと書いてあります。娼婦は普通涙を見せないそうです。このような商売をすると、必ず心が堅くなります。心を堅く閉ざして無感覚でないと、辛すぎて生きていけないからです。堅い心、冷たい心の特徴は泣けないということです。悲しめない。喜べない。ところが、イエス・キリストに近づくと、この女の目からは涙があふれてきたのです。それも、イエス様の足の汚れを洗い流すほどあふれたと書いてあります。

あなただったら、このような場合どうするでしょう。いかにも娼婦、いかにも風俗嬢という女性があなたに近づいて来て、「肩でもおもみしましょうか」とか言ってきたら、男性ならどのような反応をするでしょう。えらくベタベタと親切にされたら、「いいえ、結構です」と言って断るにちがいありません。

ところがイエス様は、この女の精一杯の愛を受け止めるのです。パリサイ人シモンは、「イエスは預言者なんかじゃない。この女が娼婦であることもわからないのか」と心ひそかに思います。しかし、イエス様は人からどう思われようと、どのような評判がたとうと気にしないで、その女の愛をそのまま受け止めるのです。

パリサイ人は人の外見、つまり見えるところを見たのです。髪型や化粧、服装……。そして、娼婦、罪人であると判断したのです。
ところが、イエス様はまったく違うものを見るわけです。この女の悲しみを見る。この女がこのようになるには、どれほど辛い経験をしてきたのか。どのような事情でこうなってしまったのか。この女がどれほど愛と恵みに渇いているか。赦しを必要としているか。どれほど神にふれようとしているのか。イエス様は、この女の本質を見るのです。

多く赦された者は多く愛する

イエス様は、シモンに次のようなことを話されました。「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか」(ルカ7:41〜42)

シモンは、もちろん多く赦された方だと答えます。その答えを聞いて、イエス様はシモンとマグダラのマリヤの行為を比べてこう言われました。「この女を見ましたか。わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙てわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。あなたは、口づけをしてくれなかったが、この女は、わたしがはいって来たときから足に口づけしてやめませんでした。

あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません』」(44〜47節)

イエス様は、この女の心をよく理解することができました。さらに、この女の内にある美しさ、気高さを見ることができました。親から捨てられ、多くの男から利用されて町では罪深い女として後ろ指さされても、この女の中には清らかで美しいものが隠されていたのです。

最後にイエスは、この女に対して「あなたの罪は赦されています」と宣言されます。これは、女がイエス様の所へ来てそれらのことをする前に、すでに彼女の罪は赦されていたということです。彼女がした愛の行為は、赦しを受けた証そのものでした。

多く赦されている人はすぐにわかります。たくさんの愛を与える人は、多く赦された人です。多く赦された人だけが、多く愛することができるのです。パリサイ人シモンは正しい人でした。町での評判も良い人でした。しかし、自分には赦されなければならない罪などないと思っていたので、多く愛することができませんでした。

イエス様は、私たちが自分ではどうすることもできない罪を赦し、神様との本来の関係を取り戻させ、その人を本来あるべき姿に回復してくださるのです。


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