キリスト教入門3

第3章 人間の尊厳
生命への畏敬

「アンドリュー」という映画は、人類がロボットを日常的に使うようになった社会のことを想定しながら、人間の尊厳ということをテーマにした映画です。
人間そっくりに作られたロボットのアンドリューが、ある家族によって購入され、召使のようにして働き始めます。
ロボットは、ひたすらご主人の命令に従うことを使命として作られ、命令に従うということだけをしていくものでした。ところが、アンドリューは他のロボットと違って、友情を感じたり、自分からすすんで本を読んだり、彫刻をしたりするのです。

アンドリューは、顔の表情を付けられるように改造してもらいましたが、それでは満足できないで、自分から腕のいいロボットの修理屋を探し、人間のような皮膚を持つ外見にアップグレード、さらには感情表現が出来るように、食事が出来て味覚も味わえるように、恋をしたり、音楽を聴いたり、人間とともに喜び、ともに泣くことができるように自分を改造してもらうのです。

アンドリューは、いのちのないロボットでしたが、いのちある人間として生まれ変わっていくのです。「人間ってすばらしいなあ」、神様がご自分に似せて人間を造って下さったことを改めて感謝させられた映画でした。

アルバート・シュバイツァーは、どのような文化の基底にも〔生命への畏敬〕がなければならないと述べています。彼は、牧師として、神学者として、音楽家としても高い評価を受けていましたが、やがてアフリカの人々に伝道する医師として働くことが、神が自分に求めておられる召しであると確信し、大学教授を辞めて医学の勉強をし、やがてアフリカのガボン地方(後のガボン共和国)で働くようになりました。「どのいのちもいのちそのものが尊いのであって、木の葉一枚にも生きようとする生命への畏敬を持つべきである」(『文化と倫理』)と述べています。

マザー・テレサは、すでに14才の頃からインドで宣教師として働こうと心に決めていました。彼女はインドの貧しい人々のところへ出かけていって、青空教室で子供たちに言葉を教えたり、聖書を教えたりしていましたが、インドの路上では誰にも顧みられず死んでいくたくさんの人々があるのを見ました。

部屋を借りて、どの病院からも受け入れてもらえない病人の看護をしたこともありましたが、彼女はいろいろな手を尽くしてやがて、「死を待つ人々の家」を作り、他のシスターたちとともに、死にそうになっている人や病気の人たちを連れてきて、食事を用意したり、洗濯をしたり、「神はあなたを愛しておられる」ということを伝えるのです。(『神の愛の宣教者会の誓い』)より

「わたしはのどが渇いている。貧しい人に愛情と思いやりをこめて飲み水をさしだすことは、神に飲み水をさしだすにひとしい。」 (マタイの福音書25章31〜40節参照)。

「神は言われた。『われわれにかたどり、われわれに似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うすべてのものを支配させよう。』神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」

同じく2章7節には、「主なる神は、土(アダマ)の塵で入(アダム)を形づくり、その鼻にいのちの息を吹き人れられた。人はこうして生きる者となった。」といわれています」
偶然に存在しているのではなく、神によって与えられ、神によって生かされているという
のです。神のかたち」というのは、?「関係」と「人格」という二つの面から考えることができます。


1) 関係の中に存在している人間

人間が神のかたちに創造されているということの一つの意味は、私たち人間が関係の中に造られているということです。人間はどこまでも関係の中で存在しているということです。基本的にはこれは次の三つの関係があります。
第一の関係は「神との関係」、第二の関係は「人間相互の関係」第三は「他のものとの関係」です。

「神はご自分のかたちに人を創造された」という言葉のうちに神と人間の関係が明白に示されています。人間は神によって造られたものですから、人間は決して神になることはできません。また人間は、神のように自ら満ち足りて存在することはできません。
人間は、神によって生かされ、自由な意思を持って、神の恵みに応答していく者として造られたのです。

2) 人格を持つものとして

『われわれにかたどり、われわれに似せて』創造されたというのは、神様が人格を持っておられるように、人間も人格を持つものとして創造されたということです。

人間が人格を持っているということは、
美しい夕焼けを見て感動したり、友達の入試合格の知らせを聞いて一緒に喜んだり、交通事故で息子を失った人のところへ、悲しみの思いでかけつけたりする。これは、私たちが神に似せて人格を持つ者として造られているからです。
犬や猫に、「入試に合格したんだよ」といっても一緒に喜ぶことはできませんし、悲しみをともにすることもできません。
人間の心は、目で見ることはできませんが、心があることはお分かりだと思います。この心には、説明のために区別をするならば、知性と感情と意思があるといってもよいでしょう。

知性があるから、いろいろなことを考えたり、作り出したりすることができます。知性がありますから、子供たちに言葉や文化を伝えることもできますし、教育をすることもできるのです。

感情というのは、うれしいことがあると喜んだり、悲しんだり、驚いたり、楽しんだり、感動したりします。これは感情があるからです。ですから、人間は芸術や音楽や文学を生み出すこともできるのです。色の美しさや、すがた、形の美しさを作り出したり、音の美しさ、音楽を楽しんだりすることができます。ことばの美しさは文学です。詩や短歌、俳句もみなそうした美しさをもっています。

さらに意思というのは、人間の尊厳ということを表しています。人間の価値はかけがえのないものですが、このかけがえのなさがここにも表されています。

自分でものを決めたり、自分の決断によって行動するという、他のだれでもない、自分は自分であるという、その人独自の人間の存在です。たとえ、親が子供はこんな職業について、こんな人になってほしい、こんな趣味をもって、こんな働きをしてほしいと思っても、子供は親の言う通りになるとは限りません。すべての人は、こうした意思を持っていますし、どんな人であっても、こうした人の意思が尊重されなけれぱなりません。

「基本的人権の尊重」ということは、人間ならではのことがらです。それだからこそ私たちは、他にも神によっていのちを与えられているあらゆるものに対して、そのいのちを尊重し、守り、みこころに従って治めていくべきなのです。

どの人もかけがえのないひとりとして、神によって招かれているということを覚えて下さい。この人間の社会では、お金があるとか、有名な会社に入っているとか、学歴がどうだとか、地位がどうだとか、部落民だとか、病人だとか、前に犯罪を犯した人だとか、そんなことで人間の価値を判断することがあります。

しかし、神の目から見れば、どの人もみな尊いひとりなのです。性格の違いや人種の違い、境遇の違い、賜物の違い、いろいろな違いをもちながら、みんなが協力して、愛し合い、神のみこころを行うことを、神は求めておられます。教会には、そのように違う人が来て、当たり前ですし、むしろ、その違いや賜物を生かして、神と人を愛し、仕えるのが教会のあるべきすがたです。

人間の価値というものは、例えば、あの人はこの人より才能があるとか、お金や財産があるとか、社会的地位がどうだとか、健康であるとか体が不自由であるとか、人種や境遇がどうだとか、…人間はこのようなことで人間の価値を考えるということがあります。

これらは相対的なものですが、聖書は、人間の価値は神のかたちに造られているすべてのいのちが尊ぶべきもの、どの人も人間の価値は絶対的なものであることを教えています。

人間が〔神のかたち〕であるということは、人間が一人ひとり神との関係において「絶対の価値」を持つ者であるということであり、〔基本的人権〕という憲法の理念は、このような聖書の人間理解から出てきていることを覚えておくことも大切でしょう。

人間は、お互い同志を比べ合うことによって、つまり〔差別〕によって価値を決めるのではなく、ひとりひとりが神の光を照り返すうつわとして、絶対の価値を持っているということが、〔平等〕ということの根拠になるのです。

3)いのちは尊いもの

人間の歴史を振り返って見ると、争いや戦争の絶えない時代はありませんそした。
なおいろいろな差別や偏見によってそのいのちさえ脅かされている多くの人々がありいわゆる先進諸国の企業などによって土地を買い占められ、仕事を奪われて貧しさを余儀なくされている人々、今日食べるものもないままに飢えの中で死んでいく子供たちがあります。貧しさや飢えのために一日に4万人もの子供たちが死んでいくという現実がありま
す。

また、20世紀になって、加速度的に多くの動植物の種が絶滅するようになってきました。地球環境の破壊ということも、深刻な問題として叫ばれるようになりました。神によって造られたこのすばらしい地球とここにあるいのちを、人類はさまざまな意味で破壊して来ているということを感じないわけにはいきません。

あるいは、自分は駄目な人間だと思ったり、生活が苦しくなったり、ショックを受けるような事件に巻き込まれて自殺をしてしまう。一人暮らしのお年寄りが、その孤独感や自分の生きる意味を見出せなくて自殺をしてしまうというようなことも後を絶たないのです。

どうしてこんなことになってしまうのだろうか。
それは、次の章の「人間の罪」の姿を見る時に、またみことぱや祈りによって主なる神のことが分かってくるにつれて、私たち人間とその問題点がしだいに明らかになってくると思いますが、それは一つには、人間が本当には「いのち」の尊さが分かっていないからでしょう。

自分のいのちも他人のいのちも割り引いて考えているのです。私が自分のいのちの尊さを分かったと思うようになったのは、イエス・キリストの十字架の意味を知るようになってからでした。イエス・キリストのご生涯を見ていくと、神様がどんなに私たちひとりひとりを愛しておられるかということが明瞭に示されています。

主イエスは、私たちに「神を愛することと自分を愛するように隣人を愛する」ことをお命じになりました。そして、神様が私たちを愛しておられる愛とはどういうものであるのか、愛するとはどういうことなのか、ということを身を以て教え示してくださいました。本来の人間のあり方をこのようにして示してくださったわけです。

私たち人間は、「あいつは悪い犯罪人だから、あんな奴と付き合ってはいけない」とか「あんな奴は死んだ方がましだ」などと考えてしまったり、優越感で人を見下してしまったり、そんなことで人を愛することができない。かと思うと、唱分は何てだめな人間だろうか」「自分のこのところがいやでいやで仕方がない」と思ったり、今のような自分、これまでの自分を受け入れることができない。あの人に親切にしてあげようと思ってもできないし、やってはいけないと思っていてもしてしまうような醜い自分に嫌気がさすというような方もいるかも知れません。思うようにならない自分を持て余している。自分を愛することもできなくなっている。

そんな私たちに、主なる神は言われます。そのままでいい。罪があり、弱さを持っているあなたのままでいい。そのままで私のところに来なさい。「私にとっては、あなたはとても尊いいのちなのだ。」といわれるのです

「あなたを創造された主は、あなたを造られた主はこう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖(あがな)う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。・・わたしの目にあなたは値(あたい)高く、貴く、わたしはあなたを愛し(イザヤ書43章1〜5節)。

神にとっては、どのひとりのいのちも価高いものです。どれほどに価高いかといえぱ、マルコの福音書8章36節で、主イエスは、「人はたとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか、自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」。これは言い換えれば、あなたのいのちは、全世界にも比べることができないほどの高いものであるということです。そして、神様がどれほど私たちの命をかけがえのないいのちとしておられるかといえば、それは神が、私たちのいのちを贖うために払ってくださった代償(イエス・キリストの受肉と苦難の生涯と十字架の死)において表されています。あなたのいのちの価を神様がどのように見ておられるか。
その最も的確ではっきりとした答えは、あなたのいのちを救うために、そしてまことのいのちに生かすために十字架に向けて赤まれたあの主イエスのお姿にこそ表されているのです。神があなたや他の人々のいのちをどんなに値高い、貴いものとしておられるか。このことが分かると、私たちはどのひとのいのちも大切にしなければならないことを教えられるのです。

あなた自身にとってもそうです。自分のいのちを愛するべきです。たとえ、あなたが億万長者になって、世界中の土地を買い占めたとしても、いのちを失ったら何にもならないのです。ここまで見てくると、すでに聖書が語る「いのち」
というのは、単なる肉体のいのちだけのことを言っているのではない。ということを感じておられると思います。聖書が語る「いのち」とはどういうものであるのか。私たちが、実に自分を生かすような意味で生きるとはどういうことなのか。次の章から順に見てまいります。

3、地を従わせよ

先に見た創世記の続きには、次のように言われています。「神は彼らを祝福して言われた。産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」」(創世記1章28節)。

この言葉の中に、第三の関係である人間とそれ以外の披造物との関係がはっきりと示されています。主なる神は、〔神のかたち〕に造られた人間に対して、「地を従わせよ」「海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」と言われています。神のものであるこの世界の管理を人間に委ねられたということです。ですから、人間は神のみこころに従ってこの世界を治めていくべきなのです。

人間は、それ以外の被造物を自分の思いのままにではなく、神のみこころに従って治め、支配し管理するという働きを、主権者なる神から委託されているのです。しかし、このように人間がそれ以外の被造物を支配し、管理するように定めているのは、人間そのものではなく、神であるということを忘れてはなりません。

人間はあくまでも神のみこころを求め、それに従ってこの世界を治めていくべきなのです。ところが、実際には戦争や差別、自然環境の破壊、動植物の絶滅などの問題を生み出しています。これは、人間が、自然界が神のものであることを忘れて私物化し、委託された管理を十分に行っていないところから生まれているものです。

これはちょうど、主人から財産の管理を託された支配人が、自分を主人のように思い込んで財産を勝手に処分しているようなものです。こうした問題の真の解決は、人間がこのような自然界の私物化から解放され、神のものである自然界を、神のみこころに従って、すべての人間の幸福のために生かすことができるように、管理することから生み出されていくものです。


 


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