キリスト教入門2

第2章 神について
人は一日一日と確実に齢をとっていく。
それは、ひとごとではない。
気づいたら、既に先がないと。
悲しまぬうちに、今からでも遅くはない。
自分を見つめつつ、マイペースで
納得のいく人生を
悔いのない人生を。
これは、九死に一生をえた体験をしてこられた新井三喜夫さんの言葉です。
新井さんはこのようにも書いています。
「この二つの体験から、私は大きなものをえることができた。困難をうまく切り抜けたというよりも、むしろ、何かとほうもなく大きな、大いなるものの力で私は救われ、生かされ、そして今も生かされているという気持ちである。」
                            「心に残るとっておきの話2」より
アウグスチヌスは、「私たちは神に造られたのであるから、神のもとに帰るまでは、平安がない」と言いました。
聖書は、私たちが、この世に偶然に生きているのではなく、「とほうもなく大きな、大いなるものの力」を持つ神によって創造され、生かされているのであると教えています。

1、 神はどのようなおかたか

神とはどのようなおかたでしようか。ある人は、風俗や習慣の違いによって、たくさんの神があると考えます。あるいは、神とは宇宙を支配する一つの力であるとか、原理であると言う人もあります。しかし、私たちのまことの神は、どのようなおかたでしょうか。

ただひとりのまことの神

世界にはたくさんの国がありますが太陽は一つしかありません。なるほど国によって、人種や風俗、習慣しきたりなどが違います。しかし、どこの国でも、ただ一つの、同じ太陽が照っています。
私たちの造り主であられる神についても同じです。まことの神は、たったひとりしかおられません。日本の神、アメリカの神などというものではなく、人種や風俗、習慣の違う世界中の人の神であられるのです。

世の中には2種類の神がいます。
一つは、人間を造った神であり、もう一つは、人間が造った神です。
「が」と「を」の違いですが、この内実はずいぶんと違います、一方は、私たちにいのちをもたらし、これをはぐくんでくださる生ける神であり、もう一方は、人間の心の中だけにあり、人間の欲望に仕えようとする死んだ神です。
まことの神は、ただひとりしかおられません。神のおことばである聖書には、「神は唯一です」(第一テモテ2:5)。
「わたしが神である。ほかにはいない」(イザヤ書45:22)と書いてあります。

このまことの神は、目に見えない「霊」であられます。また、正しいことだけを愛し、すべての人をその行ないによってさばかれる義の神です。
さらに、私たち人問と同じように、見たり、聞いたり、考えたりする人格を持っておられます。この神は、すべてのことを知っておられる全知の神であり、どのようなことでもできる全能の神であられます。

創造の神

ただひとつの、まことの神は、すべてのものをお造りになりました。まことの神は、すべてのものを、無からお造りになった「創造の神」なのです。
まず、神は天地をお造りになりました。神のことばである聖書の第一ページには、「初めに、神が天と地を創造した」(創世記1:1)と書いてあります。すべての天体は、みな、まことの神によって造られたのです。

また、この神は、全地をうめているあらゆるもの、すなわち動物、植物、鉱物などをお造りになりました。動物学者や植物学者たちは、研究すればするほど、人間の知恵ではとうてい説明できない神秘の世界に深入りすると言っています。

統計学を研究しているある大学教授は、今のようなこの世界があることは、確率的に見るならば、石ころから完成した自動車ができることよりももっと難しいことだといいました。突然変異が重なってできてきたとしても、この自然界は驚くべき調和と秩序を持って、地球全体が、いや他の天体も含めて、これ以上であっても以下であってもいけないような秩序の中でいのちの営みを続けているのです。聖書はこの世界も私たちも神によって造られ、生かされているのだと教えています。

「天は神の栄光を物語り 大空は御手の業を示す。」(詩篇19編2節)
野の花ひとつをとっても、同じ種類のものなら、どの花も、花びら、めしべ、おしべの数は同じです。しかも一つ一つの花は、どんなに精巧な機械でも造れないほど、巧みにできていて、形や色の違うものは一つもありません。そうです、神以外に、これらのものを造る知恵と技術と能力を持つものはひとりもいないのです。

次に、神は私たち人間を、創造物の傑作として、お造りになりました。聖書には、「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです」(詩篇139:13)と書いてあります。

神は、母の胎内で、複雑で精密な私たちの内臓を造り、からだを組み立て、魂と心と思いとを授けられたのです。
子どもは、何か悪いことをすると、直感的に親に会うことを恐れます。良心の働きです。これは、悪を憎まれる神の正しさの表れで、私たちが神に造られたことを証明しています。また、私たちは親しい人が死んだとか、大空をながめたとき、ふと永遠について考えます(伝道者の書3:11を参照)。これも私たちが永遠に生きておられる神に造られたことの証拠です。

愛の神

神のご性格を、ただひとことで表した言葉があります。それは「神は愛だからです」(第一ヨハネ4:8)。私たちの造る主である神は、いつまでも変わることのない絶対の愛を持ったおかたなのです。

すべてのものを与えられる愛の神

神は、私たちが人生を楽しみ、喜ぶために、すべての恵みを豊かに与えておられます。「私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神」(第一テモテ6:17)。
美しい自然、食物、健康など、これらの恵みは、みな神から与えられたものであり、木も草も花も穀物も、鳥も魚も獣も家畜も、みな私たちの生活を豊かにするために造られたものです。私たちは、これらの造られた物によって、神の愛を知ることができます。

昔、ある人は野の花をつんで「神はご自身の愛をあらわすため、永遠の昔から、花を咲かせておられるのです」と言ったとのことです。
私たちの目を楽しませる一木の野の花、それすら、私たちに対する神の愛のしるしであるというのです。
このように考えると、コップ一杯の水にも、神の愛を見ることができます。

ひとり子の神を与えられた愛の神

しかし神は、ただ、ものを与えるだけでは満足されませんでした。神は、私たち人間に対する愛のゆえに、これ以上たいせつなものはないというもの、すなわち、たったひとりしかおられないご自分の御子イエス・キリストを、私たちのために惜しげもなく与えられたのです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世(私たちのこと)を愛された」(ヨハネ3:16)。
「ほどに」という、強いことばに注意してください。神は、ひとりの御子をあなたに与えるほど、あなたを愛しておられるのです。

神は、ご自分の最善のもの、かけがえのないもの、ご自分のもっとも大切である愛する御子イエスを、あなたに与えてくださったのです。これは、あなたが神の愛に感謝して、御子イエスを通して、神を心から愛するためにほかなりません。

2、 なぜ、私たちは神を求めなければならないのか

その理由はたくさんあるでしょうが、今ここに三つだけあげてみましょう。

1) 私たちのいのちの源である神が招いておられるから

私たちの親であるまことの神は、限りないあわれみをもって、自分勝手な道に進んでいる私たちを招いておられます。
「わたしは、反逆の民、自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに、一日中、わたしの手を差し伸べた」(イザヤ65:2)。また、神はこの地上におつかわしになった御子イエスを通して、罪の重荷と人生の苦しみに悩む私たちを、みもとに招いておられます。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)。

2) まことの神なくしては真の満足がないから

これは、神を知らされた人たちが、ともに覚えてきたことです。聖書の神に出会い、このお方を信じて受け入れた人は、それ以前の自分と比べて、心の平安をもつことができるようになったと実感しています。
まことの意味での心の平安は、有名企業、財産、地位や名誉などということとは別のところにあるようです。

昨年は、統計をとりはじめて以来、自殺率が最悪になったといわれています。青少年、中高年、高齢者いずれも非常に高い自殺率になっています。自殺まではいかなくても、非常に深刻な悩みを抱えている人、人間関係で困っている人、精神的なストレスを抱えている人などは実に大勢いるのです。

ある女優は、こう言いました。「私は多くの人からうらやましがられました。花形女優になり、いろいろのぜいたくなパーティーにも招かれました。しかし私は深い孤独に悩んでいたのです」。

アメリカに、チャック・スミスという牧師がいました。この先生の教会にいわゆるヒッピーといわれる青年たちがやってくるようになりました。彼らは、人生に疲れて、シンナーや麻薬を常用し、精神的にも肉体的にもぼろぼろの状態で、教会の門をたたいたのです。

しかし、彼らは日曜日の教会の礼拝に集い、しだいに聖書の神とその意味を知るようになるとともに、人生を前向きに生きるように変わっていきました。そして、彼らの多くのものが牧師や宣教師となって、すばらしい活躍をしています。
私たちの心の空虚さは、神によってこそ満たされるのです。だから私たちは、真の満足を得るため、神を求める必要があるのです。

3) 人生の確かな目標と救いが得られます

運動会の競技でも、オリンピックのマラソンでもゴールがあります。ゴールがきちんと分かっていますから、坂道や、曲がりくねった道、嵐のような風が吹いてきてもそこに向かって走っていけばよいのです。しかし、人生のゴールはどこにあるのでしょうか。「あなたの人生の目的は何ですか?」と尋ねられたら、あなたはなんとお答えになりますか。
人生の目的とは、自分の人生の目標とかかわっています。

○○大学にいきたい。1億円の家を建てたい。○○会社に入りたい。○○という部署に昇格したい。など、いろいろと目標を持つことはあるでしょうが、ここでいう人生の目標とは、自分の人生のゴール地点を見極めて、それを目指して人生を生き抜いていくというものです。

欧米などでは、学校においても「死への準備教育」というものが行われているそうですが、これは、死への備え、自分の死とどう向き合うか、という事にも関係してきます。

「若い時代には、知識、財産、社会的地位、世間的な評価など、人はいろいろな目標を追い求めます。しかし、だれでも歳をとるにつれて、若き日の夢の多くが、結局は実現できなかったことに気づかされたり、また、幸い実現できた目標があっても、それだけでは心の渇きが決して満たされていないことを悟ります。

その上、かつてあれほど努力して獲得し維持してきた健康や地位や財産などが、徐々に失われて行くのを感じないわけにはいきません。やがて、だれでも死によって、持てるすべてのものを手放さなければならなくなる時を迎えるのです。

ここで私たちは、否応なく一つの大きな方向転換を迫られます。人生の努力の重点を、外面的なものから次第に内面的なものへと、向け変えなければならないのです。ものを「持つ」ということのかわりに、「ある」という新しい価値の領域を発見しなければなりません。何を「持つ」かではなく、どんな人問で「ある」かが大切になってくるのです。自分が築き上げ、慣れ親しんだ持てるものへの執着を絶って、もう一度、自由な心で旅立つことを考える必要があります。

もちろん、今日の社会においては、財産や生活の保障を、全く考えないわけにはいきません。しかしまた、それらにとらわれ過ぎて自分を縛ってしまうよりも、もっと内面的な価値に目を向ける生き方を目指すほうが、より大切だと思われます。執着から解放され、心の自由を求めて生きる人にとっては、死の瞬間も、新しい生命の扉を開いて歩み出す、第一歩に過ぎないのではないでしょうか。」   「死とどう向き合うか」(アルフォンス・デーケン)より

ここで重要なことは、聖書が教えている「救い」ということです。根本的なところで、神が私を愛し、私にたいして「あなたは高価で尊い」といってくださり、私の罪をキリストの十字架のゆえに赦して下さっていることを知るとき、私たちは、神のものとされる喜びと感謝と希望をもってこの人生を生きるようになるのです。
 


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