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クリスマスのメッセージです
| そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。(ルカによる福音書2:1〜7)
みなさん、メリークリスマス。クリスマスおめでとうございます。 皆さんの心のうちにも、あの人、この人の心のうちにも、神様のお恵みがありますように。 クリスマスは、今から約2000年前に、神のみ子であるイエス・キリストがお生まれになったことをお祝いするときです。今日は、世界中の人たちが、国籍や民族の違い肌の色、境遇あらゆる違いを超えて、私たちの父であり、私たちの造り主である神様のお恵みを覚えてクリスマスの礼拝を捧げております。 表題にありますように、今日はクリスマスの意味ということでお話したいと思いますが、それは一言で言って、神様が私たち一人一人の命をどんなに大切に考えておられるか、どんなに愛しておられるかということの証であります。 それから、聖書の神様は、まさに私たちの歴史の中に働いてくださる生ける神であり、約束を忠実に果たしてくださる神であるという事が、このクリスマスにおいて表されております。 私たちは、目標を立てたり、約束をしても、その通りにはなかなか実行できないということをよく経験するので巣が、神様は、旧約聖書の時代からの約束をことごとく成し遂げてくださいました。 このクリスマスの日、はじめて教会にこられたという方もあるかと思いますけれど、その方にもぜひおぼえていただきたい聖書の言葉があります。 ヨハネの福音書3章16節
聖書が教えている神様は、約束を実行することが出来る力を持った神様です。それとともに、私たちを愛してひとり子をも与えてくださるお方であります。 今私が持っている聖書は、旧約聖書と新約聖書が二つ合わさったものですが、これは二つ合わせて聖書であります。旧約聖書には、イエス・キリストが来る前のこと、一言で言えば、私たちの造り主なる神がおられて、その神様が、罪と死の内に捕らえられている私たちを救うために、やがて救い主を送ることを約束してくださいました。 そして、イエス・キリストがお生まれになって新約の時代、西暦でいうとbefore
christの時代からanno dominiの時代になりました。今年は1998年で、来年は1999年、そして2000年とイエス様が生まれてから2000年が経とうとしているわけですけれど、正確に言うと、今年はイエス様が生まれてから2002年ぐらい経ちました。
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「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。」 実は旧約聖書には、救い主はダビデの故郷ベツレヘムで生まれるといわれておりました。ベツレヘムというのは、当時の首都ではないけれどもかなり大きな町で、首都に近いところにありました。日本でいったら横浜ぐらいのところでしょうか。 けれども、イエス様がお生まれになったヨセフとマリヤが住んでいたのはナザレという田舎の村でした。ナザレという田舎の村で、マリヤのおなかも大きくなってきたころに、人口調査をするから、それぞれ自分の出身の町に行って登録しなさいという命令が出たのです。 今なら、自動車や電車に乗って行けば、その日のうちにたどり着くことが出来ますが、ナザレからベツレヘムまで110キロもある道のりを、ヨセフとマリヤは、二人であるいは3人でロバに乗って旅をしたわけであります。
昔この恵那教会で劇をやりました。ヨセフは一生懸命にあちらの宿屋、こちらの宿屋を捜し歩きました。「・・・ごめんください。私の妻が今にも子供が生まれそうなんです。どうかとめてもらえませんか。」宿屋の主人の役もやりました。「や、何か用かね。ほう、二人連れだね。あいにく宿はいっぱいであんたがたを泊める部屋はないよ。他をあたってくれ。」「あんたがたいかにも田舎者ふうだが、お金はあるのかい。1泊2人で一万円だよ。」「え、それが、何ぷん貧しい大工でして、1000円ではだめでしょうか。」「そんなんじゃとめる部屋はないよ。うちの馬小屋なら1000円で泊めてあげてもいいよ。 まあ、そんなところであったかもしれません。身よりもないし、お金もないし、大工仕事や農作業のために汗と泥にまみれた2人を快く受け入れてくれる人はいなかったのです。
これはどう言うことかというと、神の御子としてイエス・キリストはお生まれになったのですが、それは私たちの友として、私たちが受けるあらゆる重荷や痛みや苦悩、そうしたものをご自身が受けてくださるお方としてお生まれになったということであります。 神様の御子が来てくださるならば、アメリカ大統領の子供として、あるいは当時ならばローマ皇帝の子供、王子様として生まれるのがふさわしいとある人は思うかもしれません。たくさんの使用人を雇って、皇太子様のように帝王学を教えてもらって育つのがいいと思うかもしれませんが、そうではありませんでした。 遠山の金さんというテレビ番組を見られた方もあると思います。金さんが実際にどういう方であったのか私にはよくわかりませんが。少なくともあの番組に関して言えば、どうしてあの番組が人々の感動を呼ぶのでしょうか。人々の心を捉えるのでしょうか。 それは金さんが、旗本であり、奉行所の代官でありながら、一般の庶民といいますか、この世に生きているいろんな人たちとともに交わり、語らいながら、人々の痛みや悩みを自分のこととして受け止めて、ともに生きていく。そして正しい判断をしていくように、人情味のある、人間味のある姿に心打たれるからではないでしょうか。 あれがもしも、自分は武士だからということで傲慢になったり、他の人を見下したり、他の人とは関わろうとしないというようなことでは人間的にも魅力はないし、正しい裁判官の勤めを果たすことも出来ないわけです。 宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである、というのは、はるかに私たちを超えた、私たちの造り主であるお方が、人となって私たちと同じ立場に身を置いてくださり、それも私たちが経験するあらゆる痛みや苦しみをご自身が経験し、引き受けてくださるためでありました。
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「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピの信徒への手紙2:6〜11) 聖書が教える私たちの神様は、高いところにありながら、私たちのうちに下ってきてくださった神様です。高いところにいて、さあがんばってここまで上がってこいよ。とは言われませんでした。 神様は私たちのことをよくご存知でした。私たちがどんなにがんばっても自分の罪をどうすることも出来ないことを。それで、罪のない神のみ子を、ひとり子を人として私たちのうちに送ってくださいました。
聖書をお持ちの方は、イエス・キリストの生涯をぜひ通してお読みください。イエス様は徹底的に人に仕えるものとして、どこまでも人を愛するものとして生涯を歩んでくださいました。このイエス・キリストを見るとき私たちは本物に出会うことが出来ます。 本物のいのち、本当の自由、まことの愛、人間らしい生活、人生の目的、確かな望み、いろんな意味で私たちはこのイエス・キリストとの出会いにおいて本物に出会うことが出来ます。
旧約聖書が教えていたことが、どのように実現し、神の約束が今どのように果たされているのか。神が私たちに願っておられることはどういうことなのか。そういうことを語りながら、自らそれを実践して、神が私たちをどんなに愛しておられるのかを教えてくださいました。 イエス様は、その生涯のなかでただの一度も罪を犯されなかった。それにもかかわらず、神のみ子はベツレヘムの馬小屋でお生まれになって、生涯の最後のとき、というよりは、肉体の死を迎える時には、ゴルゴダの十字架で死なれました。十字架というのは、当時のローマ帝国の犯罪人をさばく極刑でありまして、あまりにいたましいものですから、ローマ市民には適用しませんでした。 当時のもっともむごたらしい刑罰の仕方で、苦しんでご自身の命を捧げてくださいました。それは、先ほどのみ言葉に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」といわれておりました。 神様が、正義を守る方であれば、人間の罪をそのままにしておくことはできません。神の裁きは必ず、罪ある人間のうちに下るのです。聖書は、すべての人間が罪のもとにあると教えています。そしてその罪の責任をとるためには死をもってする以外にはないのです。 罪がない神のみ子がどうして十字架で死なれたのでしょうか。それは、がんばって自分の力で罪を取り除くことができない。自分の知恵で死に打ち勝っていくことが出来ないで、罪と死の支配から逃れることの出来ない私たちのために、本当は私が受けなければならない罪の刑罰を、イエス様が身代わりに受けてくださったのです。この人類史上ただ一人の罪のない神のみ子が私の身代わりに罪の刑罰を受けてくださいました。 イエス様の愛は、そのようにご自分の持っているすべてのものを私たちのために捧げてくださるところの愛であります。イエス様の愛は、高いところにいて、さあがんばってここまで上がってきなさい。そうは言われませんでした。神様の愛は、私たちのところに来てくださって、ともに歩んでくださり、喜びも悲しみもともに覚えながら、救いと望みを与えてくださる。そういう愛であります。 この愛は力を持った愛であります。私たちを守ってくださる愛、私たちを助けてくださる愛、私たちに勇気と希望を与えてくださる愛、そして私たちに人生の勝利を与える愛であります |
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