場違いな人生からの解放


「場違い」な自分に気がつく

みなさんは「場違い」の自分に気がついて、何か寒いものが背中を走るような経験をしたことがないでしょうか。
たとえば、場所にそぐわない服装をした場合や、女性の集まりに男一人ポツンと座っていたり、世代が違う集まりに参加してしまったりした時です。みんなからジツと見られているような気がしてソワソワ落ち着きません。もっとも、そのくらいのことでしたら一時的に恥ずかしい思いをすれば済んでしまいます。

数日間の修学旅行に仲間外れになることを恐れて仮病をつかう生徒、聖書を学びたくて教会に出席しても雰囲気になじめないで継続しない人は、きっと少なくないでしょう。

しかし、場違いのきびしい例は、登校拒否や出社拒否となって出てきます。毎日通うべき所が場違いであったらどんなにつらいことでしょう。最近、帰宅恐怖症という病があることを知りましたが、父親が家庭に帰ってくるのが恐ろしくなることだというのです。この病にかかった人は、自分の家に居場所が見つからず、会社に一番遅くまで残ったり、帰宅前に近くの喫茶店で遅くまで時間をつぶしたり、休日でも出社したりして、家にいる時間を極端に減らそうとするのです。

つまり、自分の家や家族が場違いになってしまったのです。「男にとって外には七人の敵がいる」などと言われますが、いこいの場所であるべき家を場違いに感じたら何という悲劇でしょうか。

「的はずれ」な人生とは

ここで人間の罪について考えてみたいと思います。罪とは、犯罪、悪い行い、嘘.(うそ)をつく、人を傷つける、など色々恩い浮かびます。しかし、聖書は、根本的な罪は「場違い」のことであると指摘しているのです。

罪とは「的がはずれている」状態を表す言葉です。
身近な問題でこの「的がはずれている」状態を考えてみましよう。たとえば、一生愛し合うと誓いながら結婚した相手をにがにがしく思う。可愛い子供の心を傷つけるような育て方をしてしまう。心が通い合うことを希望して話すのに、話せば話すほど争いになってしまう、仲直りしようとして努力をした結果、絶交するような間柄に終わってしまう。このような動機と結果がちぐはぐな「場違い」はひんばんに起こっているのです。

聖書はこれらの場違いこそ、罪の姿であると指摘するのです。
このような場違いな関係や状態はどこから生じるのでしょうか。それは、私たち人間を創造された神さまとの関係が「的はずれ」になっているからなのです。
人間存在の根本は神さまとの関係にあります。

神さまとの関係の回復

聖書には、神さまとの関係が的はずれになった人々が回復する実例が多く出てまいります。
そのひとつの例に、ザアカイの実話があります。今から二千年近くも昔のイスラエル、ザアカイは人々から嫌われるクループに属していました。そのグループは人々を上手に欺いては金を巻き上げていました。彼が大金を蓄えたころには、評判の嫌われ者になっていました。

そのザアカイの前にイエス・キリストが現れたのです。
イエスという方の評判を聞いていたザアカイは心ひそかに会ってみたいと願っていたのです。そして、人目を避けて、イエスさまの通る道のそばの木に登ってその姿を一目見ようとしました。すると、ザアカイの寂しい心を見抜いた主イエスの方が近づいてきて、ザアカイに言われたのです。

「ザアカイ。急いで降りてきなさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」(新約聖書ルカ19:5)
ザアカイは、急いで木から降りてきて、大喜びで主イエスを迎えたのです。この時、イエス・キリストはザアカイの罪を責めませんでしたが、赦(ゆる)すとも言いませんでした。「あなたの家に泊まる」と言われたのです。主イエスは、ザアカイの悪事を責めるのでなく疎外感で埋もれた一人の人に注目されたのです。

そして、ザアカイはこの時、赦されたと感じました。それは彼の行った悪事が赦されたというより、彼の存在そのものが赦されたのです。神さまから離れ、根本的に場違いの人間が受け入れられ、あるべき場所に回復されたのです。
 


罪の赦しを受けた人生

聖書には「贖(あがな)い、すなわち罪の赦しを受けているのです」(エペソ1:7)という言葉があります。
贖いとは、元の持ち主に帰ることです。それこそ神が提供して下さっている罪の赦しなのです。
あるべき場所から離れ、自分勝手に歩んでいた私たちを神の元へと買い戻すために、イエス・キリストは私たちのすべての罪を背負って十字架に生命を投げ出して、値を払って下さいました。的はずれに人生を歩んでいた私たちにキリストは神への道となって下さったのです。

ですから、この救い主であるイエス・キリストを信じ受け入れる時、生まれ変わった新しい人生が始まるのです。
恵那キリスト教会では、みなさまのおいでをお待ちしています。
 


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