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| あなたは、自分を愛するように他人を愛せますか
一番大切な「愛」 あなたにとって一番大切だと思う言葉は何ですか?
しかし、聖書は、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くしてあなたの神である主を愛せよと語り、続いて「あなたの隣人を自分と同じように愛せよ」と言っています。(新約聖書マタイ2章)。それは人生にとって愛は最も大切なことであるということでもあります。 なぜ現実には困難なのか しかし、なぜ私たちにとって「隣人を愛する」ことは、現実にはむずかしいことと考えてしまうのでしようか。実際には、人は人に愛されたい、また自分も他へを愛したいと思っているにもかかわらずです。人間の現実は、多くの人々が孤独に悩み、むなしさに悩み、他人に無関心なのです。ですから、「隣人を愛する」ことなど実現できない理想、きれいごととと思ってしまうのです。 では、私たちにそのように考えさせる具体的な原因は何でしょうか。多くのことが考えられますがいくつかの問題を考えてみましょう。 第1に「本物の愛に出会っていない」ということがあるのではないでしょうか。親の愛はすばらしいものですが、しかし限界があります。ダイヤモンドの鑑定士は、何度も本物のダイヤを見て、本物を見分ける力をつけるのですが、私たちは本物の愛に出会っていないと、本物がわからないままに過ぎてしまいます。 聖書の中で、イエスさまは「あなたの隣人を自分と同じように愛しなさい」と言われました。しかし、現実には、自分を愛することも十分にできていないということが案外多いものです。愛するというモデルを見ること、本物の愛に触れるということがとても重要なのです。 第2に、愛についての誤解があるかも知れません。たとえば、よく知らない人は愛せないという考えです。たしかに人を知れば知るほど愛情を憶えるかもしれません。しかし、反対に、それはかえって嫌いになる可能性をも含んでいます。聖書ですすめる「隣人を愛する愛」とは、そのように好き嫌いとか、相性が良いとか、自分に何か利益をもたらすから愛するとかいうようなものではありません。ここですすめられている愛とは、隣人をあまりよく知らなくても「愛せる愛」、相手の条件によって左右されない愛なのです。それは、隣人を、あくまでも一人の人格として尊敬するところに始まるものなのです。
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| 愛は絶えないもの
新約聖藷のコリント人への手紙第一の13章に、次のように書かれています。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。 ここに隣人を愛するための「愛の処方せん」があると思います。しかし、ここで、「愛」という言葉に自分自身の名前を入れてもう一度、この聖書を読んでみるとどうでしょうか。とても、自分の姿が「愛」とはほど遠い存在であることに気づき、やはり、これは理想にすぎないと思われるかもしれません。 しかし、人類史上、ただ一人、この「愛」の所にその方の名前を入れて、全くそのとうり、真実だという方がおられます。それが、「隣人を愛しなさい」といわれたイエス・キリストご自身なのです。実は、「隣人を愛する」という言葉を単なる言葉として聞くのでなく、それを語られたイエス・キリストと自分との関係がどうであるかが、「愛」の鍵となるのです。どうしたらこのような愛を自分自身に実現できるのでしょうか。それはこれを単に教えとして聞くのではなく、全き愛のお方でいらっしやるイエス・キリストの愛をいただくときにそれは実現するのです。 神はイエス・キリストによってその人間への愛を明らかにされました。ですから、このイエス・キリストを信じる時、私たちは愛なる神に帰り、永遠の命を与えられるという最大の幸福を得ることができるのです。
隣人を愛することは実行できない理想とあきらめてしまうのではなく、なんとかして、そうしたいと努める人に変えられていきましょう。豊かな人生を求めて、いつでもやりなおすことができます。
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