キリスト教Q&A6
 
いのちと希望に向かって
 
 

Q36 21世紀を迎えたとはいっても、暗い時代であるように思われます。自殺率の増加、自然破壊、青少年の凶悪な犯罪、虐待、大企業の破産など、将来に希望が持てません

Q37 人間は死んだらどうなるのでしょう。
Q38 神に従おうと思ってもなかなかできない私です。つくづく自分の至らなさ、未熟さを感じます。こんなものにきぼうがあるのでしょうか。
Q39 どうして「永遠のいのち」を信じることができるのですか
Q40 「永遠のいのち」を信じないでも精一杯に生きればよいのではないでしょうか
Q41 今の時代、私たちが抱えているもっとも深い根本的な問題は何でしょうか
Q42 聖書には、「信仰と希望と愛」はいつまでも続くといわれていますが、このときの信仰、希望、愛とはどのようなものですか

Q43 クリスチャンにとって「死」とはどういうことなのですか。
Q44 人生にとってもっとも大切なこと、なくてはならないこととは何でしょうか
Q45 クリスチャンにとって人生の目標とは何ですか

 
 Q36 21世紀を迎えたとはいっても、暗い時代であるように思われます。自殺率の増加、自然破壊、青少年の凶悪な犯罪、虐待、大企業の破産など、将来に希望が持てません

NHKのテレビ番組の中で、「急増する青少年の犯罪」というテーマで、高校生たちがスタジオにきて、弁護士や教育評論家、映画監督などを交えての討論が行われたことがありました。その中である方が、「子供たちが大人になって、『大人になったらこんなにいいことがあるよ』という希望を与えることができなくなっていることが問題だ。」といっておられました。
 

希望がないというのは深刻なことです。しかし、これは何も現代に限ったことではないでしょう。イエス様も、「人々が飼う者のない羊のようにさまよっているのを見て、言われた。」と聖書にも言われています。実は先の問でも答えた「罪」が入ってきたときに、希望も失ってしまったのです。

ここで言う希望は、線香花火のように一時的に消えていくような希望ではありません。私たちは、神の救いを知らなくても、例えば、○○大学に入学したい。○○会社の重役になりたい。○○選手権で優勝したい。○○さんと結婚したい・・・というような願望をもつことはあるでしょう。しかし、これは願望であって希望ではありません。

願望は、自分のうちから出てくるもので、時とともに移り行くものです。希望する学校に合格できるかどうかはわかりませんし、合格すれば、その目標は失われてしまいます。さて、次はどうしようか、何を自分の目標にしようかということになるのです。

神によって与えられる希望の特長は、決して失望に終わることがありません。また、時代の変化や周りの人々の状況などによって揺れ動くこともありません。私たちの造り主であり、養い主であり、父であるかたのもとに帰ること、天のふるさとに向かって生きることがクリスチャンの究極的な目標であり、希望なのです。

ですから、人生の目標は、天のふるさとに帰るための備えをすることであるといってもよいのです。もちろん、そこに至るまでの過程において、小さな目標をもち、自分なりの願望をもつことはあるでしょう。しかし、この希望があるゆえに、クリスチャンは、どんな困難な状況におかれても、死を宣告されるようなことがあっても、希望をもって前に向かっていくことができるのです。
 
 

Q37 人間は死んだらどうなるのでしょう 

仏陀は、人間の人生には苦しみがあること、死を免れることはできないことを語り、それらを甘んじて受けることを教えました。キリスト教は死にたいする勝利を語り、罪の赦しを語り、救いの福音が私たち一人一人に向けてもたらされていることを述べています。私たちはそれを信じていただくならば、死を恐れることはないということを教えています。

仏陀は、死を甘んじて受けるようにと教えましたが、聖書によれば、死は甘んじて受けることができるようなものではありません。聖書が語るところの死は、肉体の死の後にやってくる永遠の滅びというさばきをもたらすものだからです。
  聖書は、「すべての人間は死んだ後神のさばきを受けることが定められている」といっています。すべてのものが、造り主である神の前に罪ある人間だからです。「(神の前に)正しいものはいない。一人もいない」というのです。

  私たちは、一人残らず罪と死からの救いを必要としている存在です。
  

罪とは的外れということであり、あるべきところにいないこと、神によって造られ生かされているにもかかわらず、まことの神をあがめようとせず、感謝もせず、自分が神のような思いに陥り、神に背き続けていることです。その行き着くところは永遠の滅びです。

神を神としてあがめようとしないもの、罪あるものはすべて神のさばきを免れることはできません。ところが、キリストの十字架と復活についての項で述べたように、神は私たちを救うために、罪のない神のみ子イエス・キリストを今から2000年前に人としてこの世に送ってくださったのです。

聖なる神様は、罪をいいかげんに見過ごすことはできません。罪はいかなる罪も神によってさばかれるのですが、この罪のさばきを、私の身代わりに神の子イエス・キリストがあの十字架の上で受けてくださいました。十字架には神の愛と神の義がひとつに表されています。

やがて私たちはこの肉体の死を迎えた後のことですが、世の終わりのときに、私たちはすべて神のさばきの前に被告人として神の法廷に出されることになります。その時、悪魔は私たちを告発して言うでしょう。

「神様、ご覧ください。ここにこの人の罪状があります。「この人は、あなたによって創造され、あなたによってあらゆる良きものをいただいてきたにもかかわらず、感謝もせず、神をあがめようともせず、神の栄光を死んだ人間や木や石や金銀などで造ったものにすりかえて偶像礼拝をしていました。

あなたを求めようともせず、礼拝もせず、自分の欲望を満たすことをしたり、隣人を愛するよりは自分勝手な思いにふけったり、うそ偽りを重ねたり、人を傷つけるようなことをこれほどにしてきたのです。

自分を神とするような傲慢な思いがいつも心の中に渦巻いていました。彼らには弁解の余地がありません。どうぞ死罪にしてください。」

しかし、信仰によってイエス・キリストにつながっている人は幸いです。

その時、イエス・キリストは、私たちの弁護者としてこのようにいわれるのです。「確かにこの人の生涯をみると神の前における罪は明白です。しかし、この人が受けるべき罪の刑罰は、私が身代わりに受けたんです。この人は私の救いを受け入れましたから、信仰によってすでにこの人の罪は赦されています。」
 
  このようにして、罪の赦しの根拠というものを、私たちは、イエス・キリストによってすでに受けているのです。神の子イエス・キリスト以外に私たちを救いうる名はほかにありません。
 

 

コリント信徒への第1の手紙15章には,「朽ちるものに蒔かれて,朽ちないものに復活する」(42〜58節参照)と言われています。時間の中に蒔かれるのですが,それは永遠のものとして実ります。種子としての姿は壊れてまったく別のものになるのですが,それは別のものではなく,その種子の実った姿です。

死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。

つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。           (1コリント15:42〜45)

  

死んだ後,どうなるのか,聖書は私たちのこの世の人生のことだけではなく、死後に続くいのちの人生のためにその救いの恵み(神様が私たちのためにしてくださったこと)を私たちに語っているのです。
 

「彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(ヘブル11:16)。

 Q38 神に従おうと思ってもなかなかできない私です。つくづく自分の至らなさ、未熟さを感じます。こんなものに希望があるのでしょうか。

大切なことは,あなたが何をしているのか,してきたのかということではなく,あなたが誰とつながっているのかということです。
 

新約聖書の使徒の働きを見ると、パウロはイエス様に出会ったときに先ず最初にした質問は,「あなたはどなたですか」という質問でした。この質問こそが私たちが神に向けて問うていくものであり、私たちが何をおいても最優先に追求していくべきことがらです。私たちの神様が、どなたであるのか。どういう神様であるのかということを追及し、このことが分かってくると、あなたの不安は解消されていくことでしょう。

聖書が私たちに求めている最も核心的なことは,行いではなく,所属なのです。

イエス様は、「わたしはつみびとを招くためにきた」といわれました。そして、罪あるままで私のところに来なさい。あるがままの自分,そのままの姿で、わたしのところに来なさい、と言って下さいます。枝が幹につながって初めて養分を吸収し、いのちの営みをすることができるように、私たちはイエス・キリストにつながることによって、実を実らせることができるようになるのです。

 
 

Q39 どうして「永遠のいのち」を信じることができるのですか

トヨタ自動織機を発明した、現在のトヨタ自動車の創立者である豊田佐吉氏の有名な言葉に、「障子を開けてみよ。外は広いぞ。」という言葉があります。日本という狭い世界にとどまっていないで、もっと広い世界に目を向けてみなさい。ということでしょう。

聖書の言葉を読んでいくと、私たちのこの世の世界だけではなく、その向こうにある世界があることを教えられます。しかも、この世の生涯は70年、80年としてもそれは短いものであり、やがて来る世界は永遠の世界であるといわれています。

「どうして「永遠のいのち」を信じることができるのですか」という質問は、つまり、「どうして「聖書の神」を信じることができるのですか」という質問と結びついています。神がどのような神であるかが分かるにつれて、神が私たちに約束しておられる永遠の希望である「永遠のいのち」を信じることができるようになるのです。
 

あなたは、人間という器と神という器とどちらが大きいと思われますか。人間が作り出した偶像は神ではないと聖書は教えています。まことの神は私たち人間よりもはるかに大きな神であり、人間の器の中に神を入れ込むことはできません。神様のほうが大きいのですから、私たちは神様がご自身を表してくださったことによって、初めて神を知ることができるようになるのです。

私たちが神を知り、真理を知る道は、人間が修行を重ね、努力を重ねて上に上り詰めていくようなやり方ではなく、神によって啓示されること、神が私たちの心に語りかけ、その願いを起こさせてくださることによって、人間の殻を破った新しい世界を見ることができるようになるのです。

Q40 「永遠のいのち」を信じないでも精一杯に生きればよいのではないでしょうか

どの人も,生きている限り,自分の生きることの意味を問います。そしてやはり,心の奥底には,自分の人生が無意味でないようにと願うことでしょう。

このときに、もしも人間がこの世に生きている間だけ存在し,後は消えてしまうものであるとしたら、結局は生きていることに意味はないのではないでしょうか。どんなに恵まれた人生を送ったと思っていても,死によって終わってしまう人生。死に飲み込まれて終わる人生はむなしいと思います。

もしも私たちが現世限りの存在であるとするなら、生まれつき障害を持った人などは報われないでしょう。

現世利益だけを追求するのであれば、この世でできるだけ好きなことをして,楽しめばいいということになります。「もし、死者が復活しないとしたら,「食べたり飲んだりしようではないか。」どうせ明日は死ぬ身ではないか。」(1コリント15:32)ということになってしまいます。

だれでも、自分の人生に意味があることを求めますし,自分という存在が肯定されることを求めていると思います。

ですから,「死を超えたいのちへの希望」ということは、どの人にとっても,その人の根源的な願いなのではないでしょうか。

Q41 今の時代、私たちが抱えているもっとも深い根本的な問題は何でしょうか

あなたは今の時代、人間の社会のありようをどのようにご覧になっているでしょうか。

私たち人間にとって、もっとも深い、深刻で根本的な問題は、聖書が述べているように罪と死の問題であり、それは神との関係の問題であると思います。

ここで、先日行った説教の一部を引用します。

「私たちにはいろいろな状況があって、今の状況というのは暴風雨が吹き荒れているような日本の状況ですね。政治的に、経済的に、教育的に、激しい変動が起こり、何か私たちが立ってきたいままでの文化、今までの価値観、今までの社会生活というものが、ぐらぐらと動いている。そういうものを感じる時代に私たちはすんでいます。

今までの文化や考え方の土台が覆されようとしています。しかし私たちクリスチャンは、こういう時代で立つことが出来るものを持っているんです。これは幸せだなと思います。地震が起こっている。暴風雨が吹き荒れている。そして私たちはその影響を受けてしまう。どうしても、受けざるを得ない。日本にすみ、この時代に生きている限りはその影響を受けるのです。

しかし、そういうような地震やあるいは嵐がありましても、私たちがしっかりと立つべき場所があるというのは強いと思います。

ダビデが言ったように、たとい山が海の真ん中に移っても、私は恐れない。海がなりとどろいてあわ立っても私は恐れない。万軍の主がわれとともにおり、彼が私の避けどころであるというしっかりとした信仰を持つと、私たちは強いと思います。

ダビデは主のことを岩と呼びました。彼は敵がたくさんいたということもあったでしょう、命が狙われているという恐怖をたびたび感じて、何となく底なしの沼にずぶずぶ沈んでいくような、あるいはあり地獄といいましょうか、ありが穴からはえずり上がろうとしても、砂が崩れてしまって這い上がることが出来ない、というような気分に、頻繁にダビデはその心の思いを告白しているんですが、そのダビデが言うことは、あなたは私の岩です。

あなたは沼地から私を救い出して、しっかりとした岩の上に私を置いてくださいました。そしてダビデはこの岩の上にたつといいました。

私たちは、たつことの出来る福音というものを持っている。私たちは真理に立つことが出来るわけです。

ある面で、私たちクリスチャンであっても覚悟をしなければならないと思います。今私たちは厳しい状況にいて、しばらくこの厳しい状況は続くだろう。

あと5年もすれば解決するとか、あと10年もすれば解決するというようなレベルのことではないだろうと思います。覚悟をしたほうがいいと思います。覚悟をすることが出来るのはなぜかというと、私たちは真理というものを知っている。岩というものを知っている。永遠的なものを知っている。

今はいろいろな価値観があって、永遠的なものも一時的なものも、せつな的なものも混在していますが、やがてはせつな的なものはせつな的なものとしてはっきり色があせてきて、はっきりとその性質が現れるときに、このときにこそ福音の性質、福音の価値観、福音の永遠性というものがはっきりと現れるわけで、私たちは二股をかけるわけには行かない。この福音の上にしっかりとたつということが要求されていると思います。

立つということは、じたばたしないということですね。立つということは、慌てふためかないということです。あせらないでしっかりとそこにたつ。そしてこの福音というものは、2000年の歴史を耐えてきた。戦争もありました。戦いもありました。迫害もありました。聖書が全部燃やされるような状況の中にもありました。しかし耐えて、いき続けてきた、正真正銘の神の言葉があるわけですから、私たちは徹底的にここにたち続けるということが大切だと思います。

今はテストのときです。日本の文化。日本の価値観。日本の教育システム。政治、経済が全部テストされているときです。そして私たちの信仰もテストされています。

イエス様は、皆さんのよく知っているお話をされましたけれど、あるものは砂の上に家を建てた。あるものは岩の上に家を建てた。そして嵐がきた。嵐は両方の家に襲ってきたんですけれど、気がついたときには、砂の上に立てた家は押し流されて、全部破壊されてしまいました。

しかし、岩の上に築いた家は、そこにたち続けていたということで、そういうふうに、たつか倒れるかがはっきり現れていく時代に私たちははいっていると、そう思います。」 

Q42 聖書には、「信仰と希望と愛」はいつまでも続くといわれていますが、このときの信仰、希望、愛とはどのようなものなのですか

信仰と希望と愛はそれぞれに密接に結びついています。

神への信仰によって希望を抱くことができ、愛の深さ広さを教えられます。希望は信じることによって生まれてくるものですが、神によって希望を与えられると、信頼としての信仰も深められていきます。愛はその相手を知ることを求めますが、知ることによって信仰と希望が強められていくのです。

人は(神に)愛されることによって信頼(信仰)を抱くようになり、他者(神)との信頼関係の中で希望を抱くようになります。愛されていることが分かると、他者を愛することができるように、そこに喜びを見出すようになるのです。

信仰は、(神の言葉を)聞くことから始まります。聞いたことがないのに信仰をもっているという人はありません。私たちは、努力や精進などによって神を知ることはできません。神を正しく知る方法は、神が与えてくださった神のことばである聖書によって神を知り、神のみこころを知り、神が私のために何をしてくださったのか、私は神の前にどういう存在であるのか、私がこの世に生きるとはどういうことなのか、人生の目的とは何か、これが私の生きる道といえる確かな道がどこにあるのかなど、この人生において私たちが知るべき事柄、救われるみちすじ、生きるべきめあて、永遠のいのちといったものを神は聖書において語ってくださっています。
 

この聖書を現代の私たちへのメッセージとして解き明かしていくのが、日曜日に行われる礼拝であり、説教です。礼拝の中で説教を聴きつづけることが大切です。あなたも礼拝においでになりませんか。
 

 

  あなたは、「永遠に続くものはなんですか」という質問に対して、どのようにお答えになるでしょうか。今はやっている歌謡曲も、やがては歌われなくなります。自動車もパソコンもモデルチェンジがしばしばなされます。

立派なビルディングも家もやがては崩れるときがやってきます。ローマ帝国や徳川幕府もやがては消滅していきました。日本は天皇のいる神の国だといって戦争をしましたが、多くの犠牲者を出して戦争にも敗れました。

お金や財産もやがては消えていきます。この地球や天体もやがては消え去るときが来ると聖書は教えています。

あるときイエス様はこんなことを言われました。

「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。

富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(マタイによる福音書6:19〜20)

天に積まれた富は、いつまでも残るものだと言われるのです。天に富を積むとはどういうことなんだろうと考えさせられますが、これも信仰、希望、愛にかかわっていることのようです。関連項目として、例えば次のような言葉があります。
はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタイによる福音書10:42)
私たちが、社会的に弱い立場にいる人(例えば、障害者、高齢者、幼児、在留外国人、難民、ホームレス、貧しい人、虐待を受けている人、助けを必要としている人など)を愛するなら、それを神様は覚えていて、報いを与えてくださる。このような働きは決して忘れられることはないというのです。

 
 
Q43 クリスチャンにとって「死」とはどういうことなのですか。

死とは本来、いのちの源である神様との関係が損なわれてしまっていること、神様との断絶状態にあることを意味していますが、神との関係が回復されたクリスチャンにとって、死とは永遠のいのちへの始まりです。
 

すでにキリストの十字架の血潮によって罪を赦されたものは、死に向かう人生ではなくて、永遠のいのちに向かう人生を生きているのです。ですから、恐れる必要はありません。

「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:38〜39)


キリスト教では、永遠の生命はこの世からすでに始まっているとされます。この世の生命と死後の生命とは、たとえば、序曲とそれに続くオペラのように密接な関係でつながっていると考えられているのです。

キリスト教徒にとって、死はもう取り返しのつかない終末ではなくて、新しい生命の始まりです。

イエス・キリストが十字架上の死を乗り越えて復活されたように、死後に天国で、先に亡くなった愛する人たちと再会し、ともに神の無限の愛に包まれて生き続けるという希望が、キリスト教信仰の根底を支えています。

ですから、聖書は死について、あきらめに沈むような言葉ではなく、喜びにあふれた表現で人々に語りかけます。

「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない」

(ヨハネによる福音書第11章25節)

「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。

死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」

死のとげは罪であり、罪の力は律法です。

わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。

わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」

                   (1コリント15:54〜58)


キリスト教の葬儀についても一言述べておきましょう。
 
キリスト教の葬儀について

「私はよみがえりです。いのちです。私を信じる者は死んでも生きるのです。』ヨハネ11:25

                 恵那キリスト教会 牧師 遠山信和

〔葬儀の意義〕

キリスト教の葬儀になじみのない方もおられると思いますので、キリスト教の葬儀についてご説明いたします。私たちは葬儀のなかで故人を礼拝したり、お焼香したり、写真に手を合わせて拝んだりしません。そのためにキリスト教は故人やご先祖様を大切にしないと言われる方もありますが、決してそうではありません。

聖書では死とは「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。』(伝道者の書12章7節)ことであると言っています。

自分を生かしてくれた肉体と霊魂が分離し、肉体はちりに撮り、霊魂は神の手の中に帰ることです。

ですから、亡くなった魂に対して、残された遺族がいろいろと供養することによって天国や地獄が決まると思って努力したり、また故人が神や仏になったといって、礼拝したりしないのです。故人はいつまでもその人の人格として神の手の中にあるからです。

人の死後はいのちを与えてくださった神様が定めることです。人間の業によって死者の霊が慰められることはありませんし、死者の霊が神になることもありません。ただ生前イエス・キリストを救い主と信じた霊魂は、間違いなく神のみ国に入り、永遠の命が与えられると約束されています。

主イエスは言われました。『まことにまことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。』ヨハネ5章24節。

私たち人間が礼拝すべきお方は、天地の創造者であり、私たちにいのちを与えてくださった唯一の生ける神だけです。そして神は、神以外の偶像などを礼拝してはならないと固く戒めておられます。「あなたにはわたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは自分のために、偶像を造ってはならない。』出エジプト記20章3〜4節。

ですから、キリスト教の葬式は、故人を拝むのではなく、これまで私たちをお守り下さった主なる神を礼拝し、また故人の徳を偲び、残された遣族の方々を慰め励ます時なのです。

『あなたの父と母を敬え。』とモーセの十戒にありますように、私たちは聖書の教えに従った立派な先祖が天に召された今、残された遣族や友人を大切にし、神の祝福を受けた生活をすることこそが、故人が一番喜ぶことと確信しています。

Q44人生にとってもっとも大切なこと、なくてはならないこととは何でしょうか

先に、信仰は聞くことから始まるといいましたが、人生において最も大切なこと、なくてならないことは、神の言葉を聞くことです。

ルカの福音書には、マルタとマリアの姉妹のことが書かれています。マルタはお客さんの接待のことで頭がいっぱいでしたが、マリヤはじっとイエス様の話を聞いていました。それを見てイエス様は言われたのです。

「主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」 (ルカによる福音書10:41〜42)

人生において最も重要なこと、必要なことは実を言うとただ一つなんだ。それは神の言葉を聞くこと。このことによってあなたのあらゆる必要は満たされるようになるといわれたのです。

関連して、有名な言葉をひとつあげておきます。

イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』     (マタイによる福音書4:4)

聖書を読んでいくと、実は私たちは、自分の力で生きているのではなく、神様のことばによって(神の意志によって)生かされているんだということに気づかされます。神様の恵みと支えが、あそこにもここにもあるんだということを知らされるのです。

Q45 クリスチャンにとって人生の目標とは何ですか

人生に目標がもてない、という人はさみしい人ですね。目標がない。私は何のために生きているのかわからない。将来に希望が持てない。というのでは元気が出てこないのも当たり前ではないでしょうか。

それでは目標を持ちましょうといって、がむしゃらにいろんな目標を掲げても、その通りにできるのかどうか。これまであなたもいろんな目標を立ててきたのではないでしょうか。お父さんやお母さんを喜ばすため、お金儲けのため、人生を楽しむため、たくさんの友達を作るため、ステキな人にめぐり合うため、人並みの生活をするため、健康で快適な暮らしをするため、

このために○○学校に行こう、○○会社に勤めよう、○○の資格をとろうというように考えることがあります。こうした考えは悪くはありませんし、大切なことであるかもしれませんが、こうしたことだけでは人生の的を外れているというのが、聖書の語っているところです。

人生の目的は、自分の故郷に帰っていくことである。あなたの真実のふるさとに帰る備えをすることである。こういうこともできるでしょう。
イエス・キリストが今から2000年前にお生まれになったクリスマスは、イエスキリストの誕生を覚えるときですけれど、私たちには確かな故郷があるということを告げ知らせる出来事が、このクリスマスの出来事です。
イエス・キリストのご生涯は、的を外れた私たちが、まことのふるさとに迎え入れられるために神様がどれほど私たちを愛してくださっているかを教えています。
イエスさまご自身が、「私が真理であり、いのちであり、道である。誰も私を通してでなければ父のみもとに行くことはできない。」と言われました。
このイエス・キリストは、私たちに道を教えるだけではなくて、その道をたどっていのちの人生を生きることができるように、私たちを導いてくださり、私たちのために必要な力を与えてくださいます。
私たちは、いろんなことを学校で、社会で勉強しますけれど、実を言うと人生において最も大切なことは、聖書以外からは聞くことができません。数学を学び、パソコンを学び、医学生は医学を学びますが、しかし誰もどこでも教えてくれない重要なことのひとつは、人間にはみんなふるさとがあるということです。
聖書はあなたに、あなたの人生に、あなたの存在に、あなたがかえるべき故郷があるんですよ、というのです。
私の故郷は岐阜県の恵那市ですよ。大井町です。瑞浪です。北海道です。ハワイです。ここでいっているのはそういう地上の故郷ではありません。天の故郷がすべての人にあるという事実です。
私たちの人生は、その天の故郷に向かって人生がある。究極の人生の目的がしっかりわかりますと、すべての問題はクリアします。
もしあなたがお仕事でもうけようということが目的であると、ある一定のもうけができたらそれで目的がなくなります。
あなたが大学に受験するということが人生の最終目的であるとすると、受験に合格したときにその目的はなくなります。何をしていいか分からない。意味を失っていくのです。
しかしもしあなたが、どんなに状況が変わったとしても、落ち込まない、最終目標がある。私はこの地上の旅は私の人生の最終目標である天国に向かって旅をしているのだ。そのように私は天国に行く備えをして、お医者さんであったり、お百姓さんであったり、商売屋さんであったり、あるいは専業主婦である、みんなそれぞれに違います。
どの人にも、私たちには帰るべき故郷がある。そこに帰るための一里塚が、私のこの世の生涯であるということを覚えたら、その過程の目標を達成したからといって、それで目標を失って、何をやったらいいか分からないということにはならないはずです。
仕事をすることも、子供を育てることも、すべてのことがみな、私たちが天の故郷に帰るその一里塚であるというふうに、人生の目標しっかりと定めている人は、どんなことがあってもそのことに振り回されることはありません。
もちろんその中で、小さな目標があってもいいでしょう。当座は学校に入るとか、結婚するとか、これくらいの利益を上げていこうとか、しかしそれはあくまでも結果であって私は豊かな人生のために、最終的な目標は神の国に行くためである。みなさんもそのような人生をしっかりとお持ちでしょうか。
イエス・キリストの生涯はそのことを私たちに知らせているのです。
しかし私たちはそのことに対して、しっかりとそのこと覚えていないと、そのことを忘れると、あるいは知らないと、何をしていいか分からない。そして小さな小さな目標に完全に振り回され、それを達するとまた戻ってしまうというわけです。
ヨハネによる福音書14章2節にはこのように言われています。
わたしの父の家には住む所がたくさんある。」
あるいは、ヘブルの信徒への手紙11章16節には、「ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。」
私たちもこの天の故郷のことをしっかりと覚えていきたいものです。
  
   

おわりに

この文章を読んでくださるかたがたへの私の切なる願いは、あなたのために神が何をしてくださったのかということを、聖書によってよく理解していただきたいということ、そしてそのような神の愛を覚えつつ、今度はあなた自身が神様の愛にこたえるために神様が喜んでくださるような生き方をするために、あなた自身で、自発的に追求し、考え、行動を起こしていただきたいということです。
 

聖書の言葉は、神様からのあなたへの語りかけです。それは一方通行で終わる言葉ではなくて、神はあなたの応答をそこで求めておられます。

 
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