キリスト教Q&A3
 
三位一体について

Q15 聖書が教えている神はどのような神なのですか
Q16  「三位一体」ということがわかりません。説明してください
Q17 イエス・キリストは、どのようなお方なのでしょう
Q18 聖霊とはどのようなお方なのでしょう
Q19 天皇制はキリスト教の信仰と相いれないものなのですか
Q20 何を信じて生きるのか、信仰の対象と信心について教えてください

 
Q15 聖書が教えている神はどのような神なのですか
ウエストミンスター小教理問答書問4の答えとして「神は、その存在と知恵、力、聖、義、善、真実において無限、永遠、不変の霊である。」といわれています。

一言でいえば以上のように答えることもできますが、これだけでは不十分でしょう。聖書全体が神はどのようなお方であるかを教えています。あなたがご自分で聖書を開き、(私の)神はどのようなお方であるのかを是非探求してください。

先ず覚えていただきたいことは、神はただひとりの神であるということです。
「わたしは初めであり、終わりである。 わたしをおいて神はない。」(イザヤ44:6,7)
聖書においてご自身をあらわしておられる神は、「私のほかに神はない」といわれました。

申命記6章4節には、「我らの神、主は唯一の主である。」といわれています。この「唯一」という言葉には、数の上からただひとりの神という意味がありますが、さらには、絶対の、比べることもできないという意味があります。
聖書の神は、他の偶像の神々とは比べることができない、生ける唯一の神です(申命記32:39、イザヤ45:5,6,18,46:9)。

また、神は、「アルファでありオメガである方」(ヨハネの黙示録1:8,21:6,22:13)です。すなわち、最初であり最後である方、はじめから存在し、終わりにも存在しておられる方です。

そして神は、天地の造り主です。いのちを生み出し、いのちを育んでおられる方です。使徒の働き17章24節でパウロはこのように神様のことを証言しています。

世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。」(使徒17:24,25)

神様のご性質について、どうしてもふれておきたいことは、神は愛のお方であるということです。イエス様は、私たちへの新しい戒めとして愛することをお命じになりました。そして愛するとはどういうことなのかを身をもって示してくださいました。

さらに神様がどのようなお方であるか、詳しく書くことはできませんが、いくつかのことを箇条書きにして紹介します。
神はすべてを知っておられる(歴代志28:9、ヨハネ21:17、ヘブル4:13)

神は聖なる方です(出エジプト15:11、イザヤ6:3,1ペテロ1:15,16)

神は変わる事がありません(民数記3:19、詩篇33:11、マラキ3:6、ヤコブ1:17)

神は自ら満ち足りて、自ら存在される方です(出エジプト3:14、エレミヤ16:20)

神はどこにでもおられる方です(詩篇139:7?10、エレミヤ23:23,24)

神は義なる方です(詩篇97:2、ローマ10:3,2テモテ4:8)

神は知恵に満ちておられます(詩篇104:24、ローマ11:33)

神は恵みと憐れみに満ちておられる(申命記4:31、エフェソ1:6,2:4,5、ヘブル4:16)

神は全能のお方です(創世記17:1、マタイ19:26、ヨハネの黙示録4:11)

神は主権的な意思を持っておられます(申命記32:39、エフェソ1:11、ヨハネの黙示録4:11)

神を知る道は、聖書に聞くことですが、聖書において指し示されているイエス・キリストを知ることによって、私たちは神に出会い、神を知ることができます。
 

Q16  「三位一体」ということがわかりません。説明してください
先に神はただ一人であるということを記しましたが、神には3つの人格があります。すなわち、父なる神、子なる神、聖霊なる神で、この3つは一人の神であり、同じ本質と、力と栄光を持っておられます。

三位一体という言葉は聖書には出てきませんが、聖書を読めば、ここには明らかに三位一体ということが教えられていることが分かります。
しかし、これを人間の側で理解しようとするとなかなか難しさがあると思います。

イエスキリストがユダヤ人たちに捕えられて、十字架に付けられた第1の理由は、イエス様が、ご自分を神の子、メシア(約束の救い主)だと証言していたことでした。

大祭司は言った。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」イエスは言われた。「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。」

そこで、大祭司は服を引き裂きながら言った。「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。どう思うか。」人々は、「死刑にすべきだ」と答えた。(マタイ26:63〜66)

旧約聖書には、やがて神からの救い主メシアがくるといわれていますが、その約束のメシア(救い主)は、ギリシャ語ではキリストです。従って、イエスはキリストであると信じる宗教がキリスト教であり、ここにはイエスが神のみ子であるという信仰があるのです。

「私を信じる者は、私を信じるのではなくて、私を遣わされた方を信じるのである。私を見る者は、私を遣わされた方を見るのである」(ヨハネ12:44〜45)

「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネの福音書1:18)

またイエス様は、私たちに聖霊を遣わすといわれました。この聖霊も神さまご自身であり、父と子と聖霊は、神として同じ本質を持ちつつ、私たちの救いのために働いていてくださるのです。どちらがレベルが高いとか低いとかいうことはありません。絶対者である神をあらわし、神としてのみわざをなさるのは神以外にはありえないのです。
「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」(ヨハネ15:26)

「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」(ローマ15:13)聖霊が私たちを導いてくださり、神様に心を開き、信仰を与え、真理を愛するもの、希望に生きるものとしてくださるのです。私たちが信仰を持って生きるようになり救いに入れられるようになるためには、聖霊の働きが必要なのです。
 

Q17 イエス・キリストは、どのようなお方なのでしょう
イエス・キリストについては、Q14などにおいても述べたところですが、イエス様はあるとき弟子たちに向かっていわれました。「あなた方は私をだれというか。」

イエス・キリストを誰と考えているかということは、そのまま私たちの考え方や生き方に大きく結びついてくることです。当時の人たちは、えらい先生、立派な教師、権威と力を持った人、などいろいろな考え方がありました。
そのとき弟子たちを代表してペテロは次のように答えました。

「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)

弟子たちはイエス様とともに生活をし、その生き様を通してこの方こそ神の子である、約束のメシア(救い主)であると確信したのです。

イエス・キリストについて述べているウエストミンスター小教理問答書問い21問,22問をご紹介しましょう。

問21 神の選民のあがない主は、どなたですか。

答 神の選民のただひとりの救い主は、主イエス・キリストです。彼は神の永遠の御子でありつつ、人となられました。それで、二つの区別される性質とひとつの人格において、当時も今も永遠に、神であり人であり続けられます。

問22 キリストは、神の御子でありつつ、どのようにして人となられましたか。

答 神の御子キリストは、次のようにして人となられました。すなわち、聖霊の御力によって、おとめマリヤの胎に宿り、彼女から生まれながらも、罪はなく、真実の体と理性的霊魂をとって、人となられました。

わずかなスペースで詳しい説明はできませんが,イエスというお方をあなたがどのような方と考え,受け入れるのか,これが私たちの人生にとって最大の急所であるということを述べておきます。どうぞ,イエス・キリストがあなたにとってどのような方であるのかを,聖書によって,教会に集うことによって追求して下さい。

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使徒16:31)これが聖書の約束です。
 

Q18 聖霊とはどのようなお方なのでしょう
聖霊については,ハイデルベルグ信仰問答問53に次のように言われています。

問53 聖霊については,何を信じますか。
答 第1には,聖霊は,御父とみ子と,同じに永遠の神である、ということであります。
 次に,聖霊もまた,私に与えられていること,まことの信仰によって,キリストとそのすべてのよき賜物にあずからせ,私を慰め,永遠までも,私とともにいてくださる、ということであります。

聖書の中で言われる「霊」とは、原語では「ルアーハ」とか「プネウマ」と言われ、これは「風」とか「息吹」という意味の言葉です。創世記2章7節には,神が人であるアダムをかたちづくり,いのちの息を吹きかけると人は生きたものとなったと言われています。

聖霊は、三位一体の第3人格である神であり、この世に生かされているあらゆるものに息吹きを注ぎ、万物を生かしておられるお方であり、特別に選ばれた人に使命を遂行させて下さるお方です。

イエス・キリストは、「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」(ヨハネ14:16)あるいは、「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」(ヨハネ16:7)と約束してくださいました。

ここで弁護者といわれているのは,別の訳では助け主とも約されていますが、聖霊のことです。
この約束の通りに、聖霊が与えられるのですが、使徒言行録によると,聖霊は、ユダヤ人だけではなく世界中の人々に,あらゆる国籍,民族,境遇の人たちに与えられ,私たちを守り導いてくださるお方であることが分かります。

私のプロフィールのところで「よき力に」と題するボンヘッファーの詩を引用してありますが、このよき力とはまさしく聖霊のことです。神を受け入れ,神とともに生きる者は,どのような嵐の時代にあっても「よき力に」守られ,導かれているのです。
 

Q19 天皇制はキリスト教の信仰と相いれないものなのですか
この問に答えるためには、天皇制とは何かということを考えることも必要でしょう。
村松剛さんは、「後醍醐なくして明治大帝なし」と言っておられます。また,歴史家の網野善彦さんは、「後醍醐天皇がいなければ,天皇制はいずれ消滅したであろう」と言っておられます(「日本社会と天皇制」岩波書店)。

天皇制存続のために大きな役割を果たしたのが後醍醐天皇ですが、この天皇が出たころには,外からは幕府の圧力があり,天皇家は持明院統と大覚寺統に分裂し,天皇を取り巻く貴族や寺院,神社の内部がまったくの分裂状態に陥っているときでした。

そして,天皇家自体,だいぶ前から,自分の意志で後継者を決めることはできず,すべて東の幕府の意向を聞かなくては後継者を決めることもできない状態に陥っていたのです。このため天皇家の諸流は,自分のところに後継者が来るようにと,幕府に伺いを立て何度も使いを送ってお願いをするという状態でした。
こうした状態に危機感を抱いた後醍醐は、これまでの天皇や上皇たちとは違ったやり方で打開しようとしたのです。

違ったやり方とは、いわば差別されるかどうかの瀬戸際にあったような非人,悪党たち(建武政府の法令では「異形の輩」といわれている)を幕府倒幕の武力として動員し、反乱を起こして自らの権力を高めようとしたのです。後醍醐は、律令以来の太政官の合議機関(天皇の立場を多少とも制約していた)を解体し,一切の権限を天皇に集中させる専制的体制を固めようとしました。

後醍醐は、みずからを「聖なるもの」の頂点に据えて,これまでの神仏をみな自分の支配下におこうとしました。このような動きを推進していくのに大きな働きをしたのが文観という僧侶でした。彼が後醍醐に近づいたきっかけは、荼枳尼天(だきにてん)という密教の神を祭ったことがきっかけであったと言われています。

荼枳尼天は狐の精ともいわれていますが、男女のセックスそのものを修行の一つとする女神を意味しているとも言われています。文観はこれを祭るとともに呪術を行うことによって,後醍醐の信任を受けるようになったと言われています。

こうして建武政権を樹立するのですが、3年ほどして崩壊してしまい、それまでの天皇や神仏の権威は大きく低落していくことになるのです。

このように,後醍醐は,これまでの天皇制とは異質な,すべてを天皇の命令,綸旨によって行うというきわめて専制的な天皇制をいったんは樹立することに成功し,これが明治政府の天皇制につながり、大日本国憲法や教育勅語,軍人直喩などにつながっていったわけです。

日本人にとって天皇制とは何だったんだろうか。あるいは外国人にとって天皇制とは何だったんだろうかということを考えるとき,私は次のような天皇制のイメージを抱きます。

1) 絶えることのない権力争い
2) 差別の固定化
3) 民衆を離れた貴族意識
4) 私がルールであるという思い上がり(生きるべき確かな基準がありません)
5) 日本民族にしか通用しない
このようなものは、キリスト教はなじめないと思われます。
 

Q20 何を信じて生きるのか、信仰の対象と信心について教えてください
聖書の使徒言行録17章21節には、「すべてのアテネ人やそこに在留する外国人は、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていたのである。」といわれています。耳新しいことを追いかけている。

流行のハンドバックが発売された。新番組のテレビドラマを放送する、というように、その日その日のことにだけ関心を持って,人生の意味や私はここに立って生きていくというものを持っていないのです。耳新しいことに興味がある、ということはつまり未だにしっかりしたものを持っていないということなのです。時代の流れに流されてしまっているのです。

何か耳新しいことを話したり聞いたりすることに一生懸命になって、本物をつかみたい、本物を知りたい、本物にかけたいということじゃなくて、その時代のそのときの目新しいものを追いかけていくだけのものは長くは続きませんから力を失ってしまいます。

聖書の神様を知るということは、新聞を読んだりテレビを見たり本を読んだりしてわかるというものではありません。そういうことがきっかけになることはあっても、それだけではありません。聖書に出てくる信仰に生きた人たちはどのようにして信仰を持つようになったかといえば、彼らは自分の人生を隠れたり逃げたりしないで,あるいはごまかしたりしないで本物を追求して生きたのです。

アブラハムは、自分の行くところを知らないけれど、出て行った、そういうプロセスの中で神にであうわけです。自分の確かな人生、生きる意味のある人生というものを求めながら生きたのです。そこには失敗があり、混乱があり、悩みがあり、苦しみがあり、そういう中で生きる神と出会うのです。

神様に出会うのは、人生の途上でであうのです。もちろん、本を読むことが一つのきっかけになったり、礼拝のメッセージによって聖書を理解したり、そのみちすじを指し示されたということはあると思いますが、自分の人生のどこかで、神様とであったという体験をするのです。

私が以前に高校生たちに話したことは、「あなたたちは自分の人生をごまかさないで,逃げないで生きてほしい。自分をごまかさないで生きてほしい。学歴や地位やお金や才能,そういうものの中に隠れないで、生きるために本当に大切なものは何だろうかということを追求しつづけてほしい。人はうわべを見るが神は心を見られるのです。人生を思いきって生きるならばきっと神様にであうことが出来る。」こういう話をしました。

ですからいくらキリスト教に熱心であっても、何か耳新しいことを聞いたり話したりするだけでは、聖書の神、聖書の言葉は分からないし力にならないんです。

ですから、哲学が生命力を失うように、キリスト教も生命力を失いうるのです。信仰が、趣味や教養の域を越えて,自分はこの信仰によって生きるということにならなければなりません。そのときあなたは,信仰があなたの生きる力であることを知るようになるでしょう。

信仰と信心ということですが、信心の場合は信じる対象があいまいで、何でも信じるところがあります。「いわしの頭も信心から」ということばがあるように、いわしの頭でも神様にしてしまって、要は信心が大切だというのですが、本当に大切なことは何を信じるかということではないでしょうか。

信仰という場合には,信仰する対象をしっかりと見つめ,追求し,本当に信じるに足るものであるかどうか(信仰の対象)を熱心に求めること、自分の人生をその信じるものにかけて生きるようになることを意味しています。
 

 
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