キリスト教Q&A2
 
キリストの十字架と復活について

Q10  イエスが神の子ならなぜ十字架にかかるようなことになったのですか。
Q11  キリストの死はどうして人間の罪のゆるしとなるのですか
Q12  キリストが復活したという聖書の教えはどうも信じがたいのですが
Q13  キリストの復活は何を意味しているのですか
Q14  キリストの十字架と復活は私たちとどんな関わりがあるのですか

 
Q10  イエスが神の子ならなぜ十字架にかかるようなことになったのですか。
聖書を読むと、イエス様が十字架にかけられたとき、それを見ていた人々はあざけって言いました。「おまえが神の子なら十字架から降りて来い。そうしたら信じてやろう。」

十字架は、当時のローマ帝国におけるもっとも残酷な処刑の仕方であり、これはよほどの極悪人がかけられるものでした。神のみ子が十字架にかかるなんておかしいじゃないか。十字架の様子をみていた人たちの中にもそのように考えている人が少なからずいたようです。

新約聖書の福音書にあるイエス様のご生涯を注意深く読んでいくと、イエス様はご自分から十字架への道を進んでいかれたことが分かります。しかも自分は何の罪も犯していないのに十字架という極刑に処せられるのです。実はここには、神様の私たちへの大きな愛が表されているのです。

実はイエス様は、以前から、十字架と復活のことを少なくとも3度、予告しておられました。
「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」(マルコ8:31、9:31,10:33)

ここに言われている、苦しみを受け、殺され、復活するという語は、原文では、苦しみを受けなければならない。殺されなければならない。復活しなければならないという強い調子の言葉が使われています。私たちの救い主は、どうしても苦しみを受け、(十字架において)殺され、よみがえらなければならないのです。

私たちを永遠の滅びに陥れようとする罪と死から救われる道は、これ以外にはないのです。人にはできないからこそ、神のほうから救いの道を、このようにして開いてくださいました。

聖書には、「人は一度死ぬことと、死んだ後さばきを受けることが定められている」(ヘブル9:27)と言われています。私たちにとって恐ろしいことは、この肉体が死んだ後、神の前に出てさばきを受ける時がやってくるということです。これには例外はありません。そして神の前に罪のないものはひとりもいないのです。

罪の支払う報酬は死である(ローマ6:23)とあるように、罪は死をもって償う以外にはありません。罪人に対するさばきの求刑は永遠の死であります。

このように死に定められた私たちの状態をいのちへと回復し、罪の奴隷の状態から解放し、人間本来の神とともに生きる永遠のいのちへの道を私たちに与えてくださるために、イエス・キリストはどうしてもこのような苦しみを受け、十字架にかかって死んでくださる必要があったのです。

イエス・キリストは、私たちが受けるべき罪の刑罰を身代わりに受けて死んでくださったのです。
 

Q11  キリストの死はどうして人間の罪のゆるしとなるのですか
救い主の条件を考えるとこういうことになります。

1) 罪のないもの
2) まことの人間
3) 私に代わって罪の刑罰を受ける

「罪のないもの」とは、人間の中には見当たりません。罪のないものは、神様以外にはおられません。その神のみ子が私たちの下にきてくださったのがクリスマスです。それは今から約2000年前のことでした。西暦はイエス・キリストの誕生を基準としています。

イエス様は、神のみ子でありながら、おとめマリヤから、まことの人としてお生まれになり、旧約聖書の約束の言葉をことごとく成就(実現)して、救い主としての生涯を過ごされたのです。

イエス・キリストの生涯は、ベツレヘムの馬小屋での出生からゴルゴダの十字架にいたるまで、父なる神に従い、神と人とに仕える者としての生涯でした。そしてイエス様は特に30歳前後の公生涯といわれる晩年の生活の中で、救い主としてのお働きをなさるのですが、それは人々を愛し、神の救いの福音を語りながら、十字架に向けての歩みに他なりませんでした。

聖書の中でイエス様はよく、「あなたの罪は赦された」という言葉を述べておられますが、これはご自分の十字架の死を根拠として言われている言葉です。

神のさばきの座の前に出るときにも、イエス・キリストを信じる者にとっては、この方が私の弁護士となって傍らにいてくださいます。そしてこのように言われるのです。「大丈夫だよ、あなたが受けるべき罪の代価は全部私が引き受けた。あなたが受けるべき刑罰ものろいもすべて私が十字架において受けたから。もうあなたは裁かれない。あなたを罪に定めるものはいない。安心していきなさい。」

聖書全体が神による救いを述べていますが、関連個所を一部だけ引用してみます。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6?8)

「彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。 彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ53:5)

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書3:16)
 

Q12  キリストが復活したという聖書の教えはどうも信じがたいのですが
信じがたいのも当然です。死はそれほど私たちにとってどうすることもできない現実になっているのですから。人間は決して罪を克服するとか、死に勝利するというようなことはできません。しかし聖書が教えていることは、「人にはできないが神にはできる」(マルコ10:27、ルカ18:27)という世界なのです。

日本のような汎神論の思想が渦巻いている社会では、神は相対的なもので、人間に近い、あるいは人間と同じようなちっぽけな神であることが多いようです。確かに人間が作り出した偶像の神々は、もともとが死んでいる神なのですから私たちを生かしたり、救い出したりすることはできないでしょう。しかし、私たちをお造りになった神はいのちを与え、いのちを育み、さらに私たちが救われることを願っておられて、イエス・キリストをも与えてくださる愛の神なのです。

「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。」(使徒17:14〜15)

あなたの神はどのような神でしょうか。大きな器と小さな器があるとします。神様は当然私たちよりも大きな器です。小さな器に大きな器を入れようとしてもこれは無理なことです。私たちの神様は、私たち人間の知恵や人間の力を超えたお方であることを覚えてください。ここでは、神を神として受け入れる信仰が求められているのです。
神様の大きさを知ることは私たちにとって大きな慰めであり希望なのです。

「実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」(1コリント15:20〜22)

「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」(ローマ8:11)
 

Q13  キリストの復活は何を意味しているのですか
私たちのために十字架にかかってくださったイエス・キリストがよみがえられたということは次のことを意味しています。

1) 神は約束の言葉を実行(実現)してくださること
2) 死に対する勝利
3) イエス・キリストは今も生きて私たちのうちに働いておられる
4) 初穂に続いて信仰者も復活し、永遠の命に生きる
5) 終末を待ち望んで生きる希望が与えられている

神は、何の業もしないで、言葉だけです私たちの救いをかたっておられるのではありません。旧約聖書は、罪と死のうちにある人間に対する神からの救いを語り、メシア(救い主・キリスト)を私たちのために与えてくださることが約束されていました。

この救い主は、死に飲み込まれてしまうようなことであれば、死に打ち勝ったということはできません。十字架と復活の両方が実現されてはじめて私たちは、この救いが現実的であり、確かな救いであることを知らされるのです。
 

Q14  キリストの十字架と復活は私たちとどんな関わりがあるのですか
イエス・キリストは今から2000年前に、イスラエルのベツレヘムというところに生まれ、33歳ごろエルサレム郊外のゴルゴダという処刑場で十字架にかかって死なれました。しかし、三日目によみがえって約40日の間弟子たちなどとともにお過ごしになり、多くの人々が見ている前で天に上っていかれたといわれています。

旧約聖書の最初の部分は、紀元前1400年ごろモーセによって書かれましたが、実は聖書を書いた究極の著者は神であると聖書は教えています。

この聖書全体は、イエス・キリストを指し示しているのです。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」(ヨハネ5:39)

またヨハネによる福音書の最初のところにはイエス・キリストについてこのように言われています。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」(ヨハネ1:1〜4)

ここで言われている、「言」とはイエス・キリストのことです。イエス・キリストははじめからおられた方であり、神そのものであり、イエス・キリストによって万物は造られたということです。
そして同じく1章14節には、このような神のみ子が、人として私たちのうちにきてくださったことがかかれています。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」

私たちは、栄光ある神様のところに自分たちの力で上っていくことができません。どんなに努力して修行を積んでもできないのです。

そこで、神様のほうから私たちのもとに下ってきてくださったのです。

私たちの神は、高いところにいて、傍観者のように「もっとがんばれよ」などといって眺めている神ではありません。もともと私たちは、この世に生きるたいうだけでも神なしには生きていくことができない存在なのですが、それだけではなく、神は私たちをイエス・キリストの十字架と復活によって、罪を赦され、いのちに向かって生きるものへと導いてくださいます。

「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」(1ヨハネ4:9〜11)
 

 
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