キリスト教Q&A1
 
あなたも招かれています

Q1  キリスト教を知るためには、どうしたらよいのでしょうか
Q2  信者になるためには、どのようなことが必要ですか
Q3  私は過去に人には言えないようなたくさんの罪を犯しました。私のようなものが教会に行ってもよいのでしょうか。
Q4  神を信じなくても、支障なく生きていけると思うのですが
Q5  聖書とは何ですか
Q6  聖書にいわれる天地創造は、進化論と矛盾しませんか
Q7  ある人をどうしてもゆるすことができません。私のような者に救いはないのでしょうか。
Q8  過去の罪を思い自己嫌悪に陥ります。私もゆるされるのでしょうか
Q9  日本キリスト改革派教会とはどのような教会ですか

 
Q1  キリスト教を知るためには、どうしたらよいのでしょうか
キリスト教はいうまでもなく、世界最大の宗教であり、現在は特にアジア、アフリカなどで急速に広がってきています。
民主主義の思想、人権の思想、自由、愛、教育などさまざまな事柄を理解していく上でも、私たちの人生のあり方を考えていく上でもキリスト教は欠かすことができません。

これをご覧の皆さんは、これまで何かをマスターする場合には、それぞれのやり方があることをご存知でしょう。例えば数学を学ぶときには、数学の本や手引書などによって幾度も練習をします。水泳をマスターしようと思えば、水泳の達人に習って実際に自分もやりながら習得していきます。

キリスト教の中心はイエス・キリストですから、聖書が教えているイエス・キリストに注目して、あなた自身が、何よりもまず聖書を読まなければなりません。聖書の中でも、イエスの言葉と行いを伝えている「福音書」から始めるのがよいでしょう。

しかし、聖書は独学で理解しようとすると、それを読むだけでは意味がよく分からないことや誤解してしまうこともあるかもしれません。
やはり、伝統のあるキリスト教の教会で、きちんとした指導を受けたほうがよいでしょう。また、キリスト教の真髄はなんといっても礼拝にありますから、是非、お近くのキリスト教会の礼拝に出席されることをお勧めします。このHPでも簡単な解説はしていますが、近くの教会を訪ねて、そこでキリスト教入門の講座とか勉強会などがあったら、それに参加するのがよいと思います。

聖書を学んでいくと、聖書は神様ご自身の自己紹介であり、救いと希望への招待の書でありますから、聖書によって、あなたはあなたを創造し、あなたを生かし、救いへと招いておられる神に出会うようになります。
 

Q2  信者になるためには、どのようなことが必要ですか
日本は実にたくさんの資格があり、学歴社会でもありますから、聖書やキリスト教がわかるのは、高学歴で思考力のある人だろうと思われる方もあるかもしれません。

もちろん基本的な知識を持つことは必要ですが、字が読めない人や学校に行ったことのない人でも立派な信仰を持っている人はたくさんあります。ですから、私は学歴がないから、などという人も心配しないで教会の門をたたいてください。神様はあなたをも招いておられます。

むしろ大切なことは、真理を求めようとする心、イエス・キリストに聞く心なのだと思います。このようにして聖書に聞いていくと、聖書を学ぶ場は、机の上だけではない、日常生活のあらゆるところで、私たちの生活において学ぶことができるようになってくるでしょう。

成長する人は学ぶ人です。信仰の上で成長しようと思ったら、やはりそれぞれが自分の事情のゆるすかぎり、きちんと勉強することをお勧めします。人間というものは、頭だけでもなければ、心だけでもありません。頭で理解すること、心で受けとめること、感じること、いずれも大切なことです。

私は、礼拝に出席することと、牧師に願い出て、キリスト教入門講座などできちんと聖書の基礎を理解していただくことをお勧めいたします。
 

Q3  私は過去に人には言えないようなたくさんの罪を犯しました。私のようなものが教会に行ってもよいのでしょうか。
私たち人間の社会は、例えば前科のある人や部落民、障害者などさまざまな人を分け隔てしたり、見下したり、「あの人と付き合っちゃダメよ」などと言ったりすることがあります。

しかし、イエス・キリストは、むしろ弱い人、貧しい人、病んでいる人、身寄りのない人、罪を犯して自分でも駄目だと思って落ち込んでいたり、他の人からも白い目で見られている人、社会の片隅に追いやられている人のところに進んで出かけていって、この人たちの友となりました。

聖書には、しばしばイエス様が罪びととして嫌われた人々と交わったことが伝えられています。当時のユダヤ教のエリートたちからは「この人は罪びとたちを迎えて、食事まで一緒にしている」(ルカ15:2)と批判しました。一緒に食事をするということは、親しいお付き合いをするということで、その人の友になるということです。イエス様はこのように、弱い人々の友となることをとおして、父なる神の心を代弁したわけです。

ルカによる福音書15章の、いなくなった羊、なくなった銀貨、放蕩息子のたとえはいずれも神のもとを離れた人が、神のもとに返ってくることを神は心から喜んでくださることを表しています。

また、イエス様は次のように言われました。「イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2:17)
 

Q4  神を信じなくても、支障なく生きていけると思うのですが
聖書には、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタイ5:45)というみ言葉があります。私たちは気づいていなくても、父なる神は太陽を昇らせ、雨を降らせて私たちのいのちを養ってくださっているではないかというのです。

この世界も神によって創造され、この中にいるあらゆる植物も動物も、私たち人間も神によって創造されたのだと言われています。そして神は私たちの生と死を支配しておられるというのです。しかも神は私たちを、神とともに生きるべく造られましたから、神に立ち返るまでは、真の平安を持つことができないのです。

神は一人ひとりの人間をお造りになって、しかもご自分のいのちにあずからせようとして招いておられますから、一人ひとりの人間の心に、ご自分への憧れを植え付けられました。だから人間は、本当に人間らしく成長するためには、神のことを知らなければならないし、神に向かって成長するときに初めてしあわせを見いだすことができるのです。

私は、聖書の神様を知るようになって、「これで私も本当のふるさとに帰ることができた」という実感をもつことができるようになりました。以前はあまり気づかなかったさまざまなことを、感謝を持って受けとめることができるようになりました。

Q5  聖書とは何ですか
聖書は「旧約聖書」(39巻)と「新約聖書」(27巻)から成り立っています。聖書は神の言葉といわれます。実際にこれを書いたのは、マタイとかマルコとかパウロといった人間なのですが、これがどうして神の言葉と言われるのでしょうか。

聖書は1冊の書物と言うよりは、幾人もの人の手によってかかれた全集のようですね。これが最初に書かれたのは、紀元前1400年ごろ、モーセによって聖書の最初の部分がかかれ、紀元後96年ごろ、ヨハネにより新約の最後の部分、ヨハネの黙示録が記されるまで、およそ1500年にもわたって、約40人の人の手によって書かれてきたのです。

しかし、この66巻を読むと分かるように、聖書の中には不思議な統一と内容の一貫性があります。1500年にわたって、40人もの人が書いたとはとても思えません。40人の著者たちが一堂に集まり編集会議を開いて、一定の方針を決めて書き始めたかのようです。

このことについて、聖書自身が、「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」(2テモテ3:16)と説明しています。「神の霊の導きの下に書かれ」と言うのは、神がそれぞれの時代に、いろいろな境遇の人に働きかけて、その人格、才能、性質などを十分に用いて、神がそれぞれの時代に働き、さらに私たちすべての人類の救いのために書かせたということです。

聖書の書かれた目的は、ヨハネによる福音書20章31節に次のようにかかれています。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」

聖書が、他の書物とは比べ物にならないものであることは、その内容からも分かりますが、聖書ほどこれまでに多くの人々に影響を与えてきたものは他にありません。現在では聖書は、世界で2197言語に翻訳され、年に5億6000万部も発行されています。

Q6  聖書にいわれる天地創造は、進化論と矛盾しませんか
「進化論」は、チャールズ・ダーウィンが提唱して以来、たくさんの仮説が生み出されてきました。今では一口で進化論といっても、その学説は多様であって一概に論じることは難しいのですが、数十年程前にアメリカでは、学校で人類の起源について、創造論を教えるか進化論を教えるかということで激しい論争が戦われたことがありました。両方とも教えたらいいじゃないですか、という思いで私はニュースを聞いていたものです。

先に記したように、聖書の目的は人々を救い、人々にいのちを与えることであって、聖書は自然科学の教科書ではありません。聖書学の発達していなかった時代には、ガリレオの地動説さえ聖書の真理を否定するかのように考えられたことがありました。

しかし、現代の聖書学の研究は、聖書が決して自然科学の真理を語るものではなく、むしろ信仰の真理を語るものであることを明らかにしています。聖書はその目的と意図にてらして読むことが必要であって、聖書から自然科学の研究成果について賛成、反対を論じることは正しい聖書の読み方とはいえないでしょう。

ガリレオは、自分の研究室に人々を連れて行ってこう言ったそうです。そこには、太陽や水星、金星、地球、火星、木製、土星などの見事な模型がありました。「これを見て御覧なさい。私はこの宇宙を見るとき、神の存在を疑うことはできない。」

すばらしい調和の中でこの天体が動いていること、季節の移り変わり、食物連鎖、さまざまな自然の営みの中に、私は神の存在を感じざるをえないというのです。

創世記の述べることは、神が世界の創造主であるということです。先に述べたように、そもそも人問は、自分自身がこの世に生を受けているという不思議に目覚めたとき、自分がどうしてここに生きているのか、自分の生きている意味は何なのか、と問わざるをえません。すなわち、私たちのいのちに関することです。

そしてこれは、人類の知恵や能力をもってしても解明することができない領域なのです。先日、ハーバード大学、マサチューセッツ工科大学などの教授が集まって討論をした模様がテレビで放送されていましたが、その中である教授は、「われわれ人類の科学がしてきたことは、人類がいかに知らないかを明らかにしたことだ。」と言っておりました。人類は、どんなに立派なビルディングを作っても、一本の草花を作り出すことはできません。「いのち」の領域は神様の領域です。

今日も私たちのいのちをはぐくんでくださる神によって教えられ、導かれて、初めて私たちは、私たちのいのちがどこから来てどこに行くのか、自分が生きる意味を教えられるのです。
私たちにとって大切なことは、神のみ言葉によって、人間の生の本質にかかわる真理を読み取ることです。
 

Q7  ある人をどうしてもゆるすことができません。私のような者に救いはないのでしょうか。
人をゆるすということはなかなか難しいことですね。言葉で「ゆるす」と言っても自分の感情がゆるさないということもあります。

人の心をよく考えていくと、人をゆるすことができない人は、自分をゆるす事ができないでいる事が多いものです。自分の中に奴隷使いがいて、「おまえはそんなことではダメだ」「そんなことでは将来が思いやられるぞ」というように、自分で自分を責め一との比較をしながら、あるときは優越感にひたり、あるときは劣等感に、あるときは自己嫌悪に陥っているということがあります。特に日本人は自分を責める傾向が強いように思われます。

もちろん自分の過失や失敗もあったのですが、自分を責め、不安と恐れのうちにいる人がたくさんあるのです。このような私たちにとって先ず必要なことは、自分がゆるされること、自分が神によってゆるされていることを知ることです。

イエス様はあるとき次のような現場に出会わせました。
「そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」

イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」

そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」

女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(ヨハネによる福音書8:3〜11)

聖書の中には、「あなたの罪は赦された」という言葉がよく出てまいります。実はこのことが人間にとってもっとも必要なことだからです。「罪のないものがまず石を投げなさい。」といわれて、誰も石を投げることはできませんでした。自分には罪がある、そして誰もが心の中で意識していなくても不安をもっているのです。そして、自分よりできの悪いものを見つけては引き下げて安心しようとするのです。

しかし、人間は、人を罪に定めたり赦したりすることはできません。それは神様だけがなさることです。
イエス・キリストの十字架の血潮によって、それを受け入れる信仰によって、あなたの罪が赦されたことを先ず覚えてください。多く赦されたものは多く愛するのです(ルカ7:47参照)。
 

Q8  過去の罪を思い自己嫌悪に陥ります。私もゆるされるのでしょうか
ご安心ください。キリストの十字架によって赦されない罪は一つもありません。イエス様は、私たちの過去、現在、未来のあらゆる罪の咎を引き受けて、十字架で身代わりに死んでくださったのです。

イエス・キリストの生涯は、馬小屋から十字架にいたるまで、すべて人に仕えるものとして、十字架にむけて歩まれた生涯でした。旧約聖書のイザヤ書53章には、私たちの救い主がどのようなお方であるか、どのようにして救いを成し遂げてくださるのかを預言して、次のように言われています。

「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。 見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。 彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。
彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。 彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。 そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。」(イザヤ書53:1〜6)

ここでいわれている「彼」とはイエス・キリストであります。
イエス・キリストは、神のみ子でありながら、例えば、道を誤り、神を神とも思わないで自分勝手に生きてきたもの、思いや行いによって神や人を傷つけてきたもの、そのような私たちを神のもとに招くために、人の姿をとってこの世に来てくださり、罪を赦し、いのち(神との交わり)に招くために、十字架についてくださったのです。

聖書が指し示している神は、決して天の高みに座って、「がんばってここまで上がってきなさい。というできない要求を突きつける神ではありません。そうではなくて、神の方から私たちのもとに下ってきてくださるのです。
ルカによる福音書15章の後半には放蕩息子のたとえが記されていますが、父の下を離れてすき放題の事をしている放蕩息子をいつも待ち続けている。そして帰ってきたときには喜んで迎えてくださるお方なのです。

罪は、神のいのちにあずかるために造られた人問の本来の姿を破壊するものです。人間はその結果、不幸になってしまいます。わずかな毒が全身を麻疹させてしまうように、罪は神の子らの生命を窒息させ、人を闇に閉じ込め、喜びを奪います。

しかし、父なる神は、そのようにご自分から離反して、不幸になった人間のことを傍観しておられるのではありません。神は人問の不幸をともに悲しみ、人問が立ち戻ってくることをだれよりも望んでおられる方です。そしてキリスト教の信仰は、神が私たちを救うために、ご自分の愛する子さえ惜しまずに死に渡された、と信じています(ローマ8:31〜39参照)。
 

Q9  日本キリスト改革派教会とはどのような教会ですか
恵那教会は日本キリスト改革派教会に属しています。
キリスト教会は大きく分けてカトリック教会とプロテスタント教会に分けることができますが、この枠組みで言えばプロテスタントの教会になります。

仏教の場合は、宗派が違えば経典も違い、教えもずいぶん違ったものになりますが、キリスト教の場合は、聖書のみを自分たちの正典としています。また聖書の解釈も古代信条(使徒信条、ニケヤ信条、カルケドン信条、アタナシウス信条)を採用していますので、基本的なところは共通しています。

使徒信条では「聖徒の交わりを信ず」と告白しているように、国籍や民族や、境遇、性の違い、人種の違い、世代間の違い、時代の違い、教派の違いなどを超えて、イエス・キリストを信じるものは、神による兄弟姉妹であると信じています。

キリスト教会は、教派が違ってもそのような一致している部分は大きいのですが、時代の流れの中でそれぞれに特長をもち、強調点を持ちつつ、教派に別れて今日にいたっています。しかし私たちイエス・キリストを信じるものどうしは、同じ神によって導かれた者として、例えばアフリカに行っても、韓国に行っても、主にある兄弟姉妹として共通の理解を持って話し合うことができるのです。

改革派の改革は、宗教改革からとられたもので、常に聖書に立ち返ろうという宗教改革の精神を受け継いで、聖書によって自らを改革し続ける教会を目指しています。

第2次世界大戦中、日本基督教団に属していた10数名の教職たちが、やがて敗戦とともに信仰の自由を与えられると、1946年4月28日、東京に集まり、日本基督改革派教会を創立しました。

ウエストミンスター信仰告白、大小教理問答書を信仰基準とし、教会組織は長老政治を採用しています。(詳しくは「日本基督改革派教会史」(聖恵授産所出版部)をご覧ください。)

恵那キリスト教会は、1925年に設立され、日本基督教会、日本基督教団をへて、1949年に日本基督改革派教会に加入しました。

 
戻る